2009'07.02 (Thu)
考察【3】 ミュージシャンの都合
【3】
A 見てくれの問題
色々と考えながら車で移動し。
夜の現場の付近の駐車場に車を入れ、その中で正装からTシャツ・ジーンズという「仕事着」に着替えをする。
基本、人間がだらしないせいか、ラフな格好になると・・・・死ぬほど落ち着くw
襟付きの服装を着て演奏する時の僕は、完全に「仕事モード」となる。
一方で、こーいうラフな格好で演奏する時の僕は、どちらかと言えば「ライブ・モード」となる。
この違いは大きい。
まず。
フォーマルなスーツを着て演奏する時。
余計な動きをなるべくしない。
汗をかいたり、派手な動きをしたりして、「スーツが破けたりしないように気を使って」演奏する。
極力省エネ・モードで演奏する。
おかげで、体ではなく頭を使う事になる。
・・・ここ、とても大きい。
余計な力みとかを可能な限り排除するワケで。
見た目の動き、視覚的な効果(面白み)をほとんど無くす。
ベースが上のポジションから下のポジションまで、派手に、バタバタと縦横無尽に行ったり来たりする・・・的な動きって奴は、ライブの場でこそ求められるけども、フォーマルな現場で、フォーマルな格好をしてやると、実に暑苦しいし・・・・「見ためがウルサイ」感じになる。
あと・・・・・そう。
フォーマルな格好をして演奏する時は、なるべく上半身を揺らさない。
全身、直立不動な感じにして、なるべく微動だにせず演奏する。
これは、はるか昔、プロ仕事に駆り出されまくった時に叩き込まれた事だ。
なるべく個性を出さない。
無表情にやる。感情を面に出さない。なるべく人間味を出さない。
ものいわぬ音楽マシーン、「プレイヤー」という生き物になったつもりで、演奏する。
BGM系の仕事の時、ミュージシャンはあくまで場の引立て役に徹さなけりゃならない。
そーいう「自己主張」をすると、どっちが主役だか分からなくなる。
だから、なるべく、大人しくする。
これが、ラフな格好のライブだと色々と変わってくる。
自分の表現、自分の音楽の追及を停止した今、だいぶ以前と違って、スーツを着てる時のような感じで「非人間的に」演奏する事が増えてきたが・・・それでも、やはり、スーツを着て演奏する時に比べて、だいぶ「ラフ」になる。
自分のリーダー・ライブを展開してた時には、表情や動きまでが、表現の一つだった。
バンドに緊張感を持たすために、不機嫌そうな表情で首を傾げたり、溜息まじりに首を振ったり、時たまニヤリと笑って見せたり、「良い感じだ」と言わんばかりに頷いたり・・・・音楽にノッている事をあらわすために上体を大きく揺らしながら弾いたり、リズムをとったり、足でアクセントの箇所で踏み込んだり、そーいうゼスチャーを織り交ぜながら演奏していた。
そーいう「忙しい」感じを基本に置いていたから、スローの曲とかで、まったく微動だにせず演奏したりすると、それだけで一つの意志表示になる。息づかいとか間合いまでをも表現に取り入れてた。
それらも含めての「音楽」だった。
そのコンセプトを学んだのは、学生時代に衛星放送を知り合いに頼んで録画してもらった、ビリー・シーン率いるナイアシンのブルーノート・ライブからだった。
http://www.youtube.com/watch?v=nfPrf_ZsNis
さすがロック・アーティストw
ブルーノート東京というジャズのハコで、椅子に座って、演奏している。
それだけなのに・・・魅せる魅せるw
これは、実際、かなり影響を受けているw
だから、その影響で、僕が最初にレギュラー・グループを作った時、こっち系のサウンドにしようとしてたくらいだw
だから、ロック畑出身のミュージシャンを集めてバンドを組んだりしたのだw
初期の頃なんて、『黒Tシャツにジーンズ』とかメンバーに指定してたくらいだw
黒Tシャツにジーンズ。
これが、僕にとっての、ライブ演奏の仕事着だった。
気合いが入る。
ジャズ・ミュージシャンっぽい格好とか、自分から選ぶ事はない。
たまに仕事で、「まあ、ラフ過ぎない格好でw」とか服装を指定された時は、しょーがないのでせめてもの抵抗で黒Yシャツにスーツ、みたいな格好をする時はある。
が、基本、何もいわれなきゃ(黒とか灰色とかの無地の)Tシャツに、ジーンズだ。
・・・たぶん、この服装のセンスの無さで無数の仕事を「一回こっきり」にしてきたハズだと思うw
「服装は?」と聞いて、「自由でいいよw」と言われて、この格好で行ったら、「・・・あれ?」って事にちょくちょくなった覚えがある。
・・・・だんだん賢くなって、「服装コードは自由」とか言われても、一応、車の中に念のために「黒Yシャツ、スーツ」を装備していく事が増えていった。現場に到着して、周りのメンツが、「ジャズ・ミュージシャンっぽい格好」をしているか、「ライブっぽい格好」をしているか、で判断するようになったが。空気を読むようにはなったが。
何にせよ、基本、黒無地Tシャツにジーンズ。ついでに手ぬぐい。
・・・このガテン系のファッションが、僕の「仕事着」だ。
昔は冬場でもそれで押し通してたが、最近では冬場は黒無地のトレーナー腕まくりかパーカー腕まくり、という具合になっている。
アロハだろうが何だろうが、「襟がついている」というだけで、抵抗がある。
少なくとも、普段着では、「ボタンがついてる服」なんて絶対に着ない。
・・・なんていうか、こう・・・・息が詰まるのだ。
首筋は出来る限り解放的に。
腕はまくる。
演奏する時に、「袖」が邪魔になるので。
大体、服装で自分を「良く」見せよう、なんて思っちゃいない。
何をどうめかしこんだところで、この「デブで不細工な仏頂面」は誤魔化しようがない。
誤魔化せないものを無理に誤魔化しても痛いだけだ。
だから、むしろ、それを全面に押し出す方向に考えていた。
洗練とか、オシャレとか、そーいう方向に持ってくよりも、むしろ、そーいうダサさを全面に押し出してしまった方がいい。
黒無地Tシャツにジーンズという、センスもへったくれもない地味な(逆に濃い)格好をデフォルトにしてしまって、個性的にやってった方がいい。
「良い」と思われるよりも、むしろ「印象的」に。
変にオシャレに対しての意識やセンスがあると思わせない方がいい。
・・・なぜか、そーいうものに対してうるさい人達と縁のある人生を送ってきたもんで、そーいう人達と付き合う時、むしろ、変に出来ないオシャレをしようと足掻くよりも「そーいうの別に興味無いんでw」という姿勢を全面に打ち出した方が何も言われないで済むしw
そーいう「オシャレに対して完全非武装な姿勢」が、むしろ、どこへでも行ける格好である事をかなり若いウチに学んでいた。
金もセンスもない人間が中途半端にオシャレに精を出すよりも、むしろ、何の飾りっけもない格好の方が、吉祥寺でも原宿でもどこでもうろつける格好である事は知っていた。
あそこら辺の街を、変にシャレっけ出してうろつくと、「・・・その格好どうよ?」的な視線にさらされる。
ならば、最初っから、センスもへったくれもない格好で、「ファッション的に丸腰な不戦スタイル」でいた方が、攻撃的視線にさらされないで済む。
若いころ、あそこら辺の街によくライブをしたり見たりしに出かけたけど、それが結論だった。
「服装に使う予算は年間1万円以下」
金があったらCDや教則本や楽器周辺アイテムやライブ鑑賞やセッションとかスタジオ代に使いたい。
・・・なんだかんだいって、ジャズの世界は、見た目よりもサウンド重視の世界だ。
見た目で人気は得られない。
もし、見た目で人気が得られたり、それで上手くなれる世界だったりしたら、全然違うアプローチをしてたかも知れないけれども。
どーあがいたって、ロックやポップスの世界に比べて、全体的にダサダサな世界なわけでw
「ダサいけど腕のあるミュージシャン」と「カッコ良いけど腕の無いミュージシャン」だったら、圧倒的に前者が求められるのが、ジャズの世界だ。
まず、腕があって何ぼ。
次に、やる気とか根性とか誠意。
見てくれは一番最後。造形やファッション性など、ほとんど問われない。
「・・・もう少し、格好とか、どーにかなんない?」とか、滅多に言われない。
というか、あまり、そーいう事を言う方が、「あ、こいつ、音楽よりも見た目とか重視しちゃってるよ。・・・チャラいなw」とか思われたりしかねないので、ある意味タブーな発言になっている。
・・・まあ、あんまり、あからさまにダサダサなファッションをするってのも、逆に「個性とか狙ってんじゃないの?」とか思われたりしちゃうので、ワザとらしい格好も出来なかったりするのだが。
ある意味、服装というものに関して、徹底的に無難な方向を狙う方がいい。
だから、僕の演奏衣装(仕事着)は、大きく分けて、三つある。
フォーマルな服装、黒Yシャツのスーツ姿、黒Tシャツにジーンズ。
それが「仕事着」だ。
「仕事着」なんだから、別に、毎度同じ格好で構わない。
フリー時代の山下洋輔氏も、黒Tシャツにズボンという格好を作業着にして、演奏が終わるたびに汗だくの作業着を着替えて酒を飲んでた、みたいな感じだったそうな。氏のエッセイによれば。
黒系の無地のTシャツに、ジーンズ。
その地味な、無愛想極まりない格好が、むしろ有効だったりする。
変に「愛想」なんてふりまくらない方がいい。
足元を見られる。
別に、見てくれでどー思われても構わない。
音だけを聴いていくれ。
そーいう「フリ」をしていた。
・・・・まあ、実際は、先述のとおり、ガン飛ばしたり、神経質そうにクビを振ったり、時たま「・・・・そうだ!」的に笑みを浮かべたり・・・・そーいう音楽以外のもの(ゼスチャー)を「演出」に使ってたりしたのワケだけどもw
それをやるにも、だから、地味な無愛想な格好の方が効果的なのだ。
パントマイム的に、表情や動きも表現出来るし。
この「仕事着」は、ずっと続けているうちに、正装とは違った意味で「気が引き締まる」服装になった。
というか。
普段着と変わらない、ラフな格好。
普段の姿、ありのままの自分を、人前に晒す。
ONもOFFもない。
仕事とプライベートが直結される。
名前(本名)を晒して、HPを持って、今書いてるようにありのままに人間を晒すのと同じ。
音楽、演奏表現をもって、僕の人となりが判断される。
・・・もう、逃げも隠れも出来ないし、しない。
どこに行っても、俺は俺。
そういう覚悟というか、腹の括り方が出来るようになった。
飾らない。
ありのまま。
所詮、どこへ行って何をしようと、俺は俺。変わらない。
だから、ステージに上がろうが、お客さんに見られようが、写真をとられようが、音源をとられようが、動画をとられようが、それをネットにUPされようが、全然かまわない。
全ての僕の行為は、僕の自己責任において、在る。
ダメなもんはダメだし、良いもんは良い。
それは僕が決める事じゃない。
僕以外の誰かが決める事だ。
だから、それを、こっちから操作しようとしても、無駄。
元々、あまり表裏の無い人間だったような気がするけど、良くも悪くも、その傾向が一気に進んだ。
大体。
変に、格好つけたところで、タカが知れている。
格好つけるならつけるで、とことんやらないと、サマにならない。
メジャー系やロック畑で活動してるミュージシャンの知人を見てると、本当に思う。
(・・・ああ、なんか大変ですなぁ・・・・)
彼らは、喋り方とか日頃の服装まで、表現になっちゃってるので、僕などから見ると、とても窮屈そうに見える。・・・まあ、彼らは、それが「自然体」なんだろうけども。
あの領域は、パンピー(一般人)がちょっとやそっと格好つけたくらいじゃ、真似出来ない。
彼ら商業ベースで活動してるロック・ギタリストとか見てると、ナルシストに自分に酔っちゃってるだけのような格好つけではなく、格好つけるにもテクがあるのだ、という事をつくづく思い知らされる。
見せ方、というのも、それはそれでキビシー世界なのだ。
冒頭で紹介したビリー・シーンなどは、その方向に洗練されきっている。
このライブの動画、冷静に見てしまえば、細かい粗さやミスが結構ある事に気づく。
というか、ライブ性、見た目を重視するあまり、そーいう事になっちゃってる部分が多々あるようにも思われるのだけれども。
・・・そんな余計なアクションとかとらずに、冷静に演奏に集中してたら、もっと高いクオリティにする事だって可能だろうに。
が。
そーいう失点を補って余りある見た目のカッコ良さとかオーラとか、そーいうものがあるわけだ。
・・・ていうか、逆の見方をすれば、ここまでアクションとかに見た目にこだわっておいて、このレベルの演奏が出来る、というのは、逆に凄い。
「自己陶酔しているように見せる」
「音楽に没頭しているように思わせる」
これがロック系のアーティストの凄い所でもあるし、テクニックでもある。
そして、その実、思いっきり打算的だったりするのがミソだw
これを、都合の良い、部分だけで切り取って、「アクションの部分だけ真似する」とか、「陶酔しているっぽい感じを真似する」とか、「アクションのために演奏が多少粗くなっても仕方ない」とか、そーいう事を中途半端に真似した所で、中途半端に終わる。
特に、全体的にダサい事に定評があるジャズのミュージシャンが、中途半端にロック・アーティストのモノマネをしたようなファッションが、一番痛い。
中途半端にやるくらいならば、最初っから「ファッションなんて考えてませんw」という「非武装スタイル」で行った方がはるかにマシだ。
あるいは、ジャズ・ミュージシャン的に、ノーネクタイにジャケットみたいな、「ラフな姿」で行った方がいい。
「サラリーマンみたいなあまりに普通のスーツ姿」は、それはそれで、煙たがられる場合がある。
仕事帰りのアマチュア・ミュージシャンがステージに上がっちゃった、的な感じになっちゃうので、店側に拒否られる場合がある。
過去に黒Tシャツにジーンズというラフ過ぎる格好の僕が何のおとがめも無く、真面目なスーツ姿で店に入ったミュージシャンが「何だその格好は!・・・どーにかしてこい!」と説教される、なんて事があった。
・・・・つまり、黒無地のTシャツにジーンズという普段着じみた格好の方が、まだマシだ、とw
僕が言うのもなんだが、実に妙な世界だw
店によって、服装コードが違うw
真面目な格好がいいとは限らないw
スクエア過ぎる事で注意されたりするw
まあ、たまに、トーゼンながら僕の仕事着もケチをつけられる場合があったりする。
だから、初めての店でやる場合は、一応、念のために上に一枚羽織るものや、黒Yシャツにスラックスという準正装を一応装備していくのだw
たまに、タンクトップに短パンにビーチサンダル、という気合の入った「ラフ・スタイル」で演奏する人もいたりする。・・・・過去に一度、マッチョな肩に刺青(タトゥー)を入れて、サングラスのオールバックに顎髭にビーサンという、夏の夜の湘南のコンビニで遭遇しそうな感じの「ピアニスト」の人と共演した事があったが・・・・ビビって誰も注意しなかったw
話せば気さくで、演奏もアグレッシブで、実に音楽に対して真摯な人だったのだけれども・・・結構意気投合したもんだったけれども・・・・あれから一度もお目にかかってないw
一体どーしてるんだろうw
実にコンテンポラリーな感じで、かっこいいプレイヤーだったのだけれども。
・・・ジャズの店の服装コードにひっかかって、演奏出来なくなったんじゃないか、って気がするw
まあ、どっちかっていえば、ジャズの世界は、「見た目よりも演奏で個性を出せよ!」という世界なので、あまり見た目で個性を発揮する方向にいかない方が無難である事は間違いない。
ていうか、見た目で個性を発揮すると、むしろ失点になる世界だ。
その失点をとりかえす分くらい演奏で得点しなきゃならなくなる。
そのくらい得点出来る余裕というか自信があるなら、見た目で個性を発揮してもいいけど。
僕には、とてもとても。
せいぜい、黒系Tシャツにジーンズ、だ。
それですら、「若ぶってんじゃない?」とか「ジャズっぽくない」とか、たまにツッコミを頂くわけだし。
この前、あつく語られた。
「府川さんね、あんた、もうそろそろ若手じゃないんだからさ・・・・もう少し、ジャズ・ミュージシャンっぽい格好とか、しておこうよ。・・・ねえ。何も、わざわざ、それで(お客さんに)色眼鏡で見られる事もないと思うんだよ。うん。勿体ないよ。」
・・・・・・・・・・・・・・う〜wwww
・・・・ちなみに。
僕の十代の頃の将来の進路希望は、「とりあえず、夜型生活が可能でスーツ着ないで済む仕事」だったw
小説家とか、ゲームデザイナーとか、イラストレーターとかw
「決まった時間に起きて、通勤して、決められた仕事をしなきゃいけない、そーいう系の仕事は絶対無理だし、やらねぇ!」
と十代の頃に決めてた。
それでミュージシャンの道を選んだわけだけど。
・・・なぜだか不思議な事に、ミュージシャン稼業をやるために、最初の数年間はスーツを着る仕事ばっかりやるハメになったww
水商売の店で、BGM演奏を中心に演奏してたのでw
・・・・あれ〜・・・・?w
おかしいなぁ・・・・・?w
実際、僕が黒系Tシャツにジーンズというラフなスタイルだけで演奏するようになったのは、ほとんど「プロ現場での演奏」をやらなくなった時期くらいからだ。
ま。
色々あって、依然ほど、「ラフなスタイルへのこだわり」みたいなものは無くなってきたが。
それでも、演奏のしやすさの面で、やはり、襟なし・袖なし、というのは確保しておきたい今日この頃w
昔のバンドとかで、よくスーツに腕まくりってあったでしょ。
・・・・アレの気持ち、よーく分かるのだ。
普通に、スーツの袖って、演奏の邪魔になる。
特にエレキベースなんて、特に。
見た目よりも機能性を重視して、あーいう事になってたんだと思う。
実際のところ、よく分からんけど。
・・・本当に、アレがカッコイイと思ってたのかもしれないし、それが当時のセンスだったのかも知れないけどw
・・・まあ、最初にカッコイイと思ったウッド・ベーシストが、ジョン・パティトゥッチだった、というせいもあるけれどもw
http://www.youtube.com/watch?v=LZWrtZIGHd4
http://www.youtube.com/watch?v=pLjxHTN9PB8
http://www.youtube.com/watch?v=KICHuE92tts
http://www.youtube.com/watch?v=lHttj-a5jX4
http://www.youtube.com/watch?v=F2aebF5VlFI
・・・ああ。
はいはい。
分かってます。
見た目も演奏も、全然違います。
ええ。
そこら辺は、ちょっと横においといて下さい。
まあ、今じゃ、多少音楽の好みも違ってきているし、さすがに当時とは考え方も変わってきているけれども。
とりあえず、ミュージシャンになる事を決意した頃の僕の中のウッド・ベーシストの姿とは、こーち系のモノだった。
(はるか後になって、ジョン・パティトゥッチがどちらかと言えばジャズ的でない系統のベーシストで、彼の演奏しているスタイルがジャズ的でないと言われたりするスタイルであると、そのように認識されている事を知るw)
この人が、僕がウッドベーシスト、ジャズベーシストを目指す直接のキッカケになったプレイヤーであり、この人らがやってた「コンテンポラリー・ジャズ・サウンド」というヤツが僕の目指すスタイルだった。
・・・で、僕が好きだった「コンテンポラリー・ジャズ」っての、つまり、このPA入りまくった、ガンガンに弾きまくりドラムが叩きまくるスタイルであってw
・・・ぶっちゃけ、ハーモニーとか、コードとかは二の次三の次w
ていうか、むしろ、「・・・・何で、ゴチャゴチャ分かりにくくするのかなぁ・・・それがたまに傷w」くらいに思ってたw
まあ、要するに、当時はきっと、全体的にロック的なものを求めてたんだろうw もっと若かったしw
こーいう事がしたくて、勉強したくてジャズの道についたのにw
僕が最初に突入したのは、スーツを着て、地味〜に、邪魔にならないように黙々と演奏する、あの世界だったw
でも、どーしたらいいか分からなかったから、「きっと、こーいう事を続けてけば、いつかあーいうパティトゥッチとかみたいな方向につながるんだ」とか夢とか希望を持って、めげずに頑張っちゃってたワケだw
・・・まあ、基本的に、全然別物だった、という事を後で知るわけだがw
それを知った時には、もう後の祭りw
今の僕のセンスや音楽性は、すっかり「もっとジャズ的、もっとアコースティックな音楽の方向」に染まってしまっているw
・・・・・・・・ふw
懐かしい我が青春の日々よw
今でも、たまに、こーいう音楽を聴こうとは思うけど・・・・あまり、自分でやりたいとか思わないw
・・・・あ。
見た目の話だった。
そういや。
そう。
見てくれ。
基本ファッション。
・・・・まだ、変える気はない。
なぜなら、Tシャツにジーンズというのが、一番、演奏しやすいし、その意味で必然があるからだ。
・・・・ていうか、もう、あまりメジャー志向というか、「成功してやろう!」的なものがなくなっちゃったので・・・・・・どこにいようとも、どこでやろうとも、ベースを弾き続ける事には変わりはないワケだし。
見た目にこだわる以前に、やるべき事、勉強したり練習したりすべき事がいくらでもあると思ってるし。
が。
もし。
共演する事で音楽的に面白い事になるような種類の人々と演奏出来るようになった時。自分ルールではなく、あちらのルールで五分で渡りあえるようになった時。
彼らと演奏するために、それなりの服装というか、「音楽以前の問題で相手にされないようになるため」に、それなりに服装というものにもう少し気を使わなきゃいけなくなる事もあるかも知れない、くらいには考えている。
彼らと演奏するために、面白い事をするために。
そーいう事を考えなきゃならない日もくるかも知れない。
ただ。
それは、まだ、もう少し先の話。
見た目にこだわるよりも先に、やるべき事が山ほどある。・・・と思ってる。
だから、まだ、トーブン、僕の仕事着(演奏時の服装)は黒系Tシャツにジーンズだろう。・・・特に、「襟付きで」とか「あまりラフ過ぎない格好でw」とか指定されない限りはw
「僕の都合」によりw
・・・ていうか、その程度で僕というミュージシャンの評価に影響が出るくらいだったら、僕はその程度のものでしかないという事だし。
2009年07月02日17:49
B MC論
見た目の問題、服装の問題から、だいぶ話が脱線したw
元に戻そうw
ラフな格好、「ライブの仕事着」に着替えた僕は、夜の現場に向かう。
この日(27日)の夜は、金沢文庫ブルームーンで、ピアノRonnieさんのライブ&セッションだった。
メンバーは例によって、島野和樹くん(ds)と僕のトリオ。
・・・まあ、ある意味で、昼間の仕事とは180度くらい違う演奏だとも言える。
ていうか、先週のライブ演奏は、どれも、ものの見事に性質からスタイルから美学から何もかも違う感じで、ある意味刺激的だったのだが。
この日の昼と夜のギャップは凄かった。
頭の切り替えってヤツが大変だ。
・・・・ちょっと切り替わりきってないw
スーツを着た時のモード、あまり余計な事を喋らない、ローテンションなモードで、現場に入る.
・・・・まあ。
結構、いつもそうだけどw
この日の僕は、いつも以上にMCに対して「付き合い」が悪かった。
基本的に、僕は、滅多な事でMCに絡んだりしないのだ。
たまにMCの人が、コッチに話題を振ってきたり、マイクを向けてくることがあるが・・・・あれは正直勘弁してもらいたい。
僕は、喋るのが得意じゃない。
たまに自虐的な皮肉なネタでウケをとる事もあるけど、基本的には面白い事は喋れない。
あるいは長い。クドイ。
もし、尺で10分くらいもらえるってんなら、延々と喋っちゃってもいいけど。
そんな、ちょっとマイクを向けられて、スポットで面白い事を言え、とか言われても困る。
とりあえず、自分のリーダー・ライブの時は、曲名と作曲者だけコールして、それだけで演奏する。
ていうか、それ以上、何を喋れ、と?
この、口下手な、ジョークの一つも飛ばせない僕に?
ていうか、可能な限り、MCはしない方向で考えている。
僕がリーダーの時には。
MCなんて出来るだけしたくないけども、それがバンマスの仕事だからやる。
それだけ。
・・・正直、「MCはバンマスの仕事」という感覚がある。
だから、自分がバンマスでもない限り、出来る限り、そんな「仕事」はやりたくないのだ。
なので。
サイドメンの時、「仕事」を一切こっちに回さないでもらいたい。
というのが本音。
たまに、MCという仕事をこなしきれず、サイドメンにその仕事をまわすヴォーカリストの人やフロントの人がいる。
・・・はっきり言って、メンドーくさいし。
そんな事よりも、こっちは、出来る限り、仕事(演奏)の事を考えたいのだ。
あんまりにも、その傾向が強い人には、僕は、キッパリと言う。
MCは「仕事」ですので、大変でしょうが、是非、「孤独」に頑張ってください。(二コリw)
ひとまず、基本的に「ソロ」で片づけてください。完結させて下さい。
バッキングとかインタープレイとか(つまり、相槌とか掛け合いとか)、そーいう助けとか、一切期待しないでください。
・・・ていうか、なるべく、事前にMCのネタ繰りくらいして来てください。
喋りながら考えたりして、ズルズルいかないように。
MCも表現の一つであり、仕事です。
不安があるならば、ちゃんと練習してきましょう。
・・・そーいう事を、キッパリと言い渡す。
要するに、突然、MCで何かふられても無視する確率高いですよ、と。
たま〜に、気分が乗ったら、援護射撃する事もありますけど。
基本的には、こっちは一切関知しません、と。
相槌を入れるどころか、ジョークに笑ってやったりもしません、と。
そこら辺を踏まえて、是非、すべらないMCを心がけてください、と。
そのようにヴォーカリストやバンマスに言う。
・・・まあ、余計な事を言わなければ、滑る事はないし。
うまい事やれば、演奏や歌のプラス・アルファにもなるのがMCってヤツだ。
演奏、音楽と一緒で、まあ、つまりは「表現」だ。
お客さんにお見せすべき、表現の一つだ。
けしてテキトーにやって良い問題じゃない。
テキトーにやるならやるでいいけど、その問題に対して、僕は、何ら感知しませんよ、と。
「我関せず、俺知らんもんね」という態度を決め込む、と。
・・・もし、そーいうMCに対するリアクションとか欲しけりゃ、そーいうのが得意なベーシストを探せばいいでしょう、と。
そーいう雰囲気作りも大事だと考え、そーいう技術をも磨いている腕利きのサポート・ベーシストを探せばいいでしょう、と。
僕はベーシストなのであって、MCでも、コメンテーターでもない。
Mcという仕事に対して、助け舟なんて出さない。
というか、口下手な僕が助け舟を出そうとか余計な事をして、さらに余計にスベってしまうような事態は避けたいし。
だから、そう割り切っている。
少なくとも、そう一度キッパリと意志表示をした相手には、二度とは言わない。
たとえ、ステージ上で困っちゃっても、助け舟なんて出さない。
愛想笑い、茶々を入れる的な笑いも、入れない。まるで無視して、次の曲の譜面を見たり、瞑想したりしてる。
・・・まず、自己責任でどうぞ、と。
だいたい。
スベらないように喋る、というのを、簡単に考えてはいけない。
知り合いとか、常連さんとか中心のお客さんならば、多少の内輪ネタとか分かりづらいネタでも笑ってもらえるかも知れないけれども。
基本的には、そうじゃない。
初対面の人相手に、短い尺で、スベらないように喋る。
・・・それだけで高等技術だ。
ましてや、音楽や歌を聴きに来ているお客さんだ。
笑いに来てるお客さんじゃない。
つまり、積極的に笑おうとしに来ているお客さんばかりじゃない。
・・・ある意味で、お笑い芸人の舞台よりもキビシー状況だ。
そこでスベらないように喋るってだけでも高等技術なのに、さらに、ウケをとるなんて・・・・
こんな難しい事って、無い。
確実にスベらない、ウケのとれる話芸・・・・そんな事が出来たら、芸人をやれる。プロの。
別に、我々は芸人じゃない。
だから、「確実にウケをとる必要」はないけれども。
・・・ひとまず、スベッちゃダメだ。
スベったら、そのまま、演奏の評価もスベる。
こーみえてスベリの帝王、ドンビキの帝王として知られる僕ですら、MCってものについては、多少は研究した。
MCの上手いヴォーカリストの人とかのトークは、実に見事だ。
そつなく場をあたため、自分の歌の世界を作り出し、表現につなげている。
・・・後ろで聞いてて、そのそつのなさに、実に感心する。
MCとは、司会(master of ceremonie)だ。
曲の合間に、曲を紹介したり、ショーを彩るためにコメントを添えたり。
そーいうものだ。
別に漫談コーナーじゃない。
ウケをとる必要はない。
確実にウケをとれるなら別だが・・・まあ、基本的には、曲名とリスペクトをこめて作曲者をコールするもの、だろう。
ついでに、その曲にまつわる由来や、歌詞の大意やら、自分の思い出やら・・・そーいうのを長過ぎず、上手い事まとめて話す。
つまり話芸だ。
・・・これ、結構、真剣に考えると、難しいのだ。
僕は、とてもうまい事言えない。
そーとー気分が乗った時に、しかもスベらないであろう事を確信した時に、「・・・・・はい。オン・ザ・サニー・サイドストリートです。明るい表通りを歩こう。・・・・きっと、それまで日陰を歩いてきたんでしょうねぇw ・・・よっぽど紫外線とか気にする人で、ある日、ついに決心して、UVカットの日焼け止めクリームとかを買ってみたわけで。・・・・その時の感動を情熱的に綴った、そーいうスタンダードの名曲です。はいw」とかテキトーな事を言うのでイッパイイッパイだ。
小笑いくらいしかとれないネタだけども。
それでも、ギリギリすべらないですむ、ネタの一つだ。
短く切り上げる事。
特に、見た目が特にいいわけでもないミュージシャンのインストライブとかならば、なおさら。
Mcなんてオマケ程度におさえて、とっとと次の曲に行った方がいい。
女性ヴォーカリストならば、二〜三パターンくらいは「すべらないネタ」を用意しとく方がいいだろう。
アドリブですべらない話を確実に出来るようになれば、しめたもの。
・・・だけど、それは中々難しい技だと思うし。
一番、困るのが、ステージの上で見きり発射で喋りはじめて、収拾がつかなくなり、ダラダラとまとまりのないトークが続き、お客さんが呆れかえってしまう事。
そんな時に、目でSOS出されて振り返られても、困る。
そんなスクランブル事態を、どーにか収集するような見事なトークなど、出来るワケがない。
仕方無いので、「・・・・・そろそろ、次の曲、やりません?」とか言ってあげる事にする。
この強制終了のパターンは、なるべく使いたくないのだ。
なんか、いかにも「弾きたがりっぽい印象」を与えるので。
「MC不干渉の原則」は維持したいものだったりする。
繰り返しになるけど。
MCは、表現の一つ、ステージの演出の一つだ。
休憩時間とか終了後の、くだけた感じでお客さんと話す時のそれと同じノリであってはならない。
そのノリで、休憩時間のトークの延長の雰囲気でやってしまうと、一見さんのお客さんとか、ちょっとした疎外感を味わう。「不平等」が生じる。
あまり、そーいう事は避けた方が良い気がする。
ご贔屓のお客さんを中心に、それを特別扱いをするような・・・つまり彼らとの会話ややり取りをMCに組み込む系のやり方は、上手くやらねばそれ以外のお客さんを「・・・なんだよ。仲間うちで勝手にもりあがりやがってるだけか?」と白けさせる事にもつながるし、MCで話をふられた方にあまり気持ちの準備がなかった場合、困惑してしまう。
ミュージシャン仲間とかでも同様。
「へ?・・・今日は、純粋に、お客さんで来てるんだけどなぁ・・・(困)」という事になる。
突然、MCで自分の事を話題に出されても、それで喜べる稀有な自己顕示欲の強いタイプな人もいないではないけども。
普通は、そうじゃない。
人前で喋るとき、つまり「仕事で」人前で立つ時とそうでない時の区別は、明確に分けている。
同様に、飛び入りを強いるのも、僕は好かない。
僕自身がそのせいもあるけれども。
だから、知己の同業者のライブに足を運ばないのだ。
・・・飛び入りを奨められても、「いや、今日は客で来てますんでw」とやんわりと断る。
・・・それで終わってもらいたいもんだ。
それ以上、しつこく、「いや、出てくださいよw」とか無理強いされると、逆に、ドンビキする。
メンドーくせぇから、もう二度とその人のライブとか遊びに行くもんか、と思ったりする事すら、ある。
名前を売りたくて必死で「チャンスがあったらくいついてくる若手」とか、チャンスがあれば演奏したいような「演奏したがりのアマチュア」でもない限り、何の準備もない状態で突然ステージに呼ばれて、演奏させられて・・・・それで喜ぶミュージシャンはあまりいない。
最初っから飛び入りする気満々な場合もあるけど、そーいう時は声かけられたら、素直に応じる。
変に「・・・え〜w」とか勿体つけたりはしない。
あるいは、そーいうフリをしながらも、全然困ってないように見えない素振りで、ワザとやったりするけれども。
ただ。
少なくとも、本気で「え〜、ちょっと今日は・・・」と飛び入りを拒否している時とかに、しつこく誘われたりしたら、軽くムッとしますわな。
ヴォーカリストの世界とか、そこら辺の微妙な空気にキビシー。
はるか昔、キャリアの最初のころの話。
当時、六本木の真夜中の演奏とかをしてたけど、仕事を終えたヴォーカリストのお姉さま方が飲みに来るわけですよ。
で、色々と「あの人さ、アタシのお客とってったのよ?信じられる〜?」とか、一歩間違えたらお水の会話じゃないかと思うような濃い内容の話が目の前で展開されるわけですな。
その一つで、「ヴォーカルの飛び入りの作法」なんてものに話題がいった時があった。
いまはどうだか知らないけど、当時のヴォーカリストの世界では、「お友達のヴォーカリストのライブを応援しに(?)見に行く」というのが、ごくごく当たり前に行われていた。
そーいう事をお互いに頻繁に繰り返し、ヴォーカリストどうしの横のつながりを確保し、代打出演の機会とかトラの話とかにつなげるのは勿論、行った先の友人のお客さんとの面識も得て、自分のライブにも足を運んでもらう・・・・的な、そーいう事が普通に行われていた。
まあ、最低限の仁義ってヤツがあるので、あからさまに「自分のライブに来て下さいね☆」とかは言わない。そーいういぎたない真似はしない。そっと自分のライブ予定の紙とかを名刺代わりに渡したりする。
そーいう事を繰り返すことで、自分のライブにも足を運んでもらったり、新しい自分の客をゲットしたり・・・・そーいう事をするわけだ。
で、他のヴォーカリストのライブにこまめに足を運び、そのヴォーカリストとの親交がある事をアピールしたりして、そういう「横のつながり」を保持しておくことで、お客さんには「ああ、この人も、ジャズ・ヴォーカリストの世界で名の通っている(プロの)ヴォーカリストなんだな」という事を言外に悟らせるわけだ。
自分から「ヴォーカリストです」とか「プロです」とか「ライブとかやってます」とかアピールするのは、どちらかといえば「はしたない真似」とされる。そーいう事を言うと、足もとを見られる。ので、そーやって、自分がライブ活動をしているヴォーカリストである事をアピールするために、そーいう他のヴォーカリストのライブに足を運ぶ、とかをよくやるわけだ。
それが、ヴォーカリストの世界の流儀だった。
ヴォーカリストの世界は、人にもよるが、インストとは全然世界が違う。
人前で歌う時と、そうでない時のファッションとかメイクとかまで、違う。
ONとOFFの差が激しい。
六本木界隈で、そーいう「最初っから飛び込みする気満々」のヴォーカリスト達は、やはり(主役の顔をつぶさない程度に)めかしこんでくる。・・・・こっちの世界のドレスコード(服装規定)には、もう、我々外野はついていけない。
まだ右も左もわからない、夜の世界のルールなんて知らないお子様だった僕は、目を丸くして、そーいう世界の流儀を見聞きしたり、教わったりした。
同時に。
そーいうヴォーカリストの流儀は、インストの流儀とは別になってくる。
今はどーだか知らないけれども。
インストの場合、飛び入りの機会すらない。
よっぽどのVIPのミュージシャンが客で来てるんでもない限り、「飛び入りしないか?」的な声をかけたりはしない。
「オレは純粋にライブを楽しみに来てるのに、なんでイキナリ『仕事』しなきゃならないんだ?」という事になる。
ミュージシャンが、呼ばれて飛び入りを進められて喜ぶとは限らない。
むしろ、何の打ち合わせも無く、飛び入りをコールしたりしたら、それだけで「失礼!」にあたる場合もある。
さりげなく、セットの合間とかに、「・・・じゃあ、次のセットで声かけさせてもらいますんで・・・何曲kかやってもらえます?」とかコッソリとひと声かけておくのが筋ってもんで、そーいう順序を踏まえておけば、何の前触れもなくイキナリ飛び入りを強要して、呼ばれた方が戸惑って、「・・・・・え?・・・(困惑)」みたいな何とも微妙な空気が流れる事もないのだ。
他のヴォーカリストのライブに出席して、それとなくお客さんに自分をうりこみ、自分のライブに来てもらう、あるいは誰か他のミュージシャンや店に自分を紹介してもらう・・・・・・・的な営業の仕方は、インストのミュージシャンの世界では、ほとんどタブーだ。
そもそも「自分を売り込む」みたいな、ガツガツしたやり方は、それだけで白い目で見られる。
チャンスがあったら、そこでキッチリ自分のやるべき仕事をやる。こなす。
・・・それで気に入ってもらえたら、他の仕事にも呼んでもらえる。その仕事で共演した他のミュージシャンの他のライブにも声をかけて頂ける。
そーいう、ミュージシャンどうしの「口コミ」で仕事をつかんでいくしかないのだ。
Hpとか一生懸命作っちゃったり、チラシとか作っちゃったりとか、そーいう営業努力とかに精を出してしまうミュージシャンは、それだけで「音楽以外の事にうつつをぬかしてる」と見做され、白い目で見られたりとか、仕事に呼んでもらえなかったり、とかされる。
・・・今は、どうだか知らないけどw
僕が、徐々にプロ仕事から離れて、自分のライブ活動とかHP作ったりとかチラシ配ったりとかした頃。
何人かのベテラン・ミュージシャンの方から、忠告というか、そーいうものをされた。
「府川くん。・・・・そんな事をやってるヒマがあったら、もっと仕事(音楽)に取り組んだ方がいいよ」
自分で自分を売り込む・・・・というだけで、足元を見られる。
ミュージシャンは音で勝負。
どんなに「やる気があるんです!」とか「勉強してるんです!」とか「練習しまくってんです!」とか「夢があるんです!」とか「こーいう音楽が好きなんです!」とか・・・そーいう事を言った所で、全部無駄。
「あ〜そう。・・・どーでもいいよ。仕事さえ、キッチリしてくれればね。好きにやれば?」の世界だ。
「成功したいんです!」みたいな発言はご法度だった。
そりゃ、そうだ。
あの「プロの世界」でミュージシャンをやっている人々は、みんなプライドとポリシーを持って、あの夜の世界で音楽をやっているわけで。
そんな場で、「音楽の世界で成功したいんです!」的な空気の読めない発言したら、言外にその人達を「成功してない人々」「うだつのあがらない人々」と言っているのに等しい事になる。
・・・・まあ、それが、鼻っ柱の強かった当時の僕の本音だったわけだけどもw
こんな地味な、陽の目をみない世界でやってられっか!
いつか、もっと明るいオモテの世界を目指してやる。
・・・とか、そーいう生臭い野心を持ってたので、よく、そこら辺をつっこまれたりしてたもんだがw
「ミュージシャンは、売り込みはしない」
これが鉄則だった。
自分の演奏以外で、音以外で、人にアピールしない。
サウンドだけで全てを語るべし。
これがプロの流儀だった。
仕事が欲しけりゃ、良い仕事(演奏)をしろ。
なんぼ、一生懸命HPをやったり、チラシを作ったり、雑誌とかでPRしても・・・・ダメ。
「シャリコマに走ってる」の一言で、終わる。
あるいは「まるでヴォーカリストみたいだなw」とか「ロック小僧かよw」とか、小馬鹿にされる。
むしろ、そーいう事をしたら、「必死こいたら」、ミュージシャンの世界では足元を見られる。
・・・・て感じだった。
僕がむかし、プロ仕事ばっかりしてた時の状況は。
・・・・どうだろう?
今では、よく分からない。
あれから僕は、「純粋な」その道のプロ・ミュージシャンの人達からみれば、シャバくさい、アマチュアくさい方向にイッキに堕落して突き進んでいたようなもんだろうが。
・・・・・今でも、あの「流儀」というかオキテみたいなものは、あるのかな?
それとも、HPを持つくらいの事は、解禁になったのかな?
よく知らないけれども。
何にせよ。
まあ、やっぱ、あまりガツガツするのは良くない。
話がずれたな。
そう。
だから、MCとか、飛び入りとかについて、かなり慎重にやらなければならないのだ。
やるならやるで、スベらないように。
ちゃんと「下準備」はしておく事。
妙な間があいて、ドッチラケな感じになって、「・・・どーするよ、これ」的な雰囲気になる事だけは絶対に避けなきゃならない。
演出的に。もしライブを成功させたいならば。なんだかんだいって、ライブは、ショービジネス、エンターテイメントなのだから。
・・・・完全に音楽勝負! の、余計なMCを全く入れない、ストロングなスタイルでやるなら、それはそれでアリだけど。
と、いう事で。
調子が悪かったんだか何だかわからないけれども。
この日のライブでは、ちょっとMCが不調。大すべりは無かったけれども、軽いプチすべりや空周りが、いくつか見られた。なんかデュオでやってた時に、たま〜に見られた、あの状況だった。
勿論、僕は、全く「助け船」など出さない。
なんか軽く困ってるっぽい感じは見受けられたし、幾度か相槌を求めるような風に感じられもしたけど・・・・軽くスルー。
次の曲をいかに演奏すべきか、あるいはアンプのセッティングをどのようにするか、とかそー言う事を考えていた。
MCはバンマスの仕事なので、そこは、ちゃんと頑張ってください。僕は関知しません。
親切なドラムの島野君は、いちいち「危機」をフォローすべく助け舟というか、「笑い」を入れてあげたりしてたけど・・・・・・・・さすがに、ステージ上で、「いいよ、島野君。助けなくて。・・・困らせとこうw どーなっちゃうか見物しようw」とか言っちゃうような、そー言う「意地悪」こそしなかったけどw
「・・・・今日、ちょっとMC長いかな?」と、訊かれたので。
「長いですね。・・・ハッキリ言って、余計な情報(喋り)が多すぎます。」と、バッサリw
演奏7分くらいに対して、MC4分弱は、長い。
だったら各セット、もう一曲ずつ追加した方が良いくらいだと思うし。
とりあえず、僕がお客さんなら、そう思う。
キレイな美人さんで、しかも喋りが上手いとかで、喋ってるだけでも絵になるような、そーいう事なら、そんくらいの喋りがあってもいいとは思うし、間も持つと思うけど。
基本的に、野郎三人で音楽で勝負する以外に手のないバンドなワケで。
芸人に弟子入りとかでもして、確実な笑いをとる方法でも教わってくるんじゃない限り、MCなんて極力控えた方が無難っちゃ無難だと思う。
せめて、相当下準備をしてくるとか、日頃からMCのイメージ・トレーニングを重ねるとか。
そーいう事もせずに、下手に頑張れば頑張るほど、プチすべり、空周りはさけられない。
秋に、(おそらくは)完全にアウェイな状況で長丁場ライブをする事になるのだから。
それも想定していかないと。
と思う。
勿論、漫才とかそれ的な掛け合いとか相槌は入れる気とか一切ないので。
・・・まあ、せめて「苦笑い」くらいの助け舟は出してもいいけど。
少なくともMCで困った時に、「フォローを入れてあげない、助け舟を出してあげない、僕の方が悪い」的な空気だけは勘弁してもらいたいなぁ、と思う。それを、僕のせいにするつもりはないだろうけども・・・・・MCで手詰まりになって困った時に、チラチラとこっちを見られても、困る。
そーいう時。
あえてスルーして、とぼけて、譜面とか入念にチェックしちゃうもんね。
「インタープレイ」は音楽だけで十分なのだ。
MCは仕事なので、是非、ソロでどーにかしてもらいたいと思う。
けして、僕が不親切なわけでも、助けあい精神に欠けてるわけでもない。
・・・けど、何となく、仏頂面で無関心を決め込んでいる、全然フォローを入れようとしない僕の方がいけないみたいな、まるで僕が悪いみたいな、そういう空気をうっすらと感じたんで。
ぷち不機嫌になるw 少なくとも、セッションタイムに入る前の、2セット目までのライブタイムの間は。
この、微妙な薄く険悪なムード、がライブにもたらす悪影響というものは、よく知っている。
軽く、その空気を読み取って、お客さんがドン引きしてるのも知っている。
分かっているけど、どーしようもない。僕には手の打ちようがない。
だから嫌なのだ。 ライブなんて楽しくやらんと。
ぜひとも、MCはソロで(単独で)成立するように、頑張ってもらいたいと思う今日この頃。
それがあって、はじめて、邪魔にならない程度にオブリガードやコンピングも入れられのだから。
という、「僕の都合」により。
この日、僕はかなり付き合いが悪かった。
C ミュージシャンの都合を排除してみる
さて。
この日、ドラムの島野君との談笑(ダベり)の中で。
「音楽にミュージシャンの都合をなるべく交えないでアプローチしてみる」という話題が上がった。
今回の一連の「考察」における、キーワードの一つでもあるのだが。
「どこに定点をおくか」、だ。
「定点」、もしくは基準点。
ここを鮮明にしない事にゃ、物事がハッキリしない。
およそミュージシャンをやってる人間で、「良い音楽をやろう」と思った事の無い人間などいない。
たとえ、商売で音楽をやるようになった人間ですら、その最初のきっかけは「音楽をしたい」という原初の動機があり、その動機の根源は「良い音楽」への憧憬がある。
プロフェッショナリズム、アーティシズム、アマチュアイズム、エンターテイメント精神。
この四つのベクトルで、一番最初に来るのが、アマチュアイズムだと思う。
アマチュアイズムこそ、音楽の根幹であり、重要な純粋な第一元素だと思う。
これらを定点という視点で言いかえるならば。
アマチュアイズムとプロフェッショナリズムは、要するに「(自分が)演奏する事」という事に対する軸だ。
どこまでも自分のために演奏するのがアマチュア、人のために演奏する事も自分のためと心得て演奏出来るのがプロフェッショナルだ。
一方、アーティシズムとかエンターテイメント精神とかは、「作品」に対する軸だ。
どこまでも自分の作りたいと思う作品を作るというのがアーティストであり、人の求める作品も作りたいと思えるのがエンターテイナーだ。
いいかえるならば。
アマチュアとは自分やバンドという主体を定点として、演奏する人。
プロとは客やクライアントという客体を定点として、演奏する人。
アーティストとは自分やバンドという主体を定点にして作品を創造する人。
エンターテイナーとは客やクライアントという客体を定点にして作品を創造する人。
と言える。
・・・・まず、ミュージシャンという時点で、誰でも良い音楽を求めているのだ。
問題は、その良い音楽というのが、誰にとっての、どのようなものか、だ。
言うまでも無く、「アマチュア・アーティスト」が人に受け入れられる可能性は、限りなく低い。
だって、自分のための音楽を自分のために演奏するわけで。
そんなサービス精神に乏しいものを好む人なんて、ごくごく稀だろう。よっぽどの変わり者しかいない。
逆に「プロフェッショナル・エンターテイナー」の作品は、多くの人に受けるだろう。
人のために、人が喜ぶような音楽を演奏するわけで。
サービス精神の固まり、と言っていい。それを嫌がる人は、アマチュア的なもの、アーティスト的なものを好む、偏屈・・・もとい、マニアックな、すこしややこしい感性の持ち主だと言える。
・・・ややこしい事にモダン・ジャズという音楽は、思いっきり「アマチュア・アーティスト」の属性の強い音楽だったりするのだ。
モダン・ジャズ、ビバップの成立の時点で。
「スイング・ジャズ」という音楽が存在していた。
グレンミラー、ベニー・グッドマン、カウントベイシー、トミー・ドーシー、デューク・エリントン・・・様々なプロフェッショナル・エンターテイナーの楽団が乱立し、彼らの演奏した音楽のリズムから「スイング」とカテゴライズされた、あの音楽だ。
それらはラジオを通して、アメリカの一般大衆の耳に届いた。
ウキウキするような、誰でも分かる面白さを持っていた。
それでいて、高度な演奏技術と個々の奏者の高い演奏技術や豊かな音色が求められる音楽だった。
これらの楽団は、ダンス・ホールの伴奏に、歌の伴奏に、映画のサントラに・・・・八面六臂の大活躍を見せた。
これらの一流バンドのプレイヤーは、つまり、プロフェッショナル達だった。
バンマスやアレンジャーのいかなる要求にも応えるだけの、広範な技術を持った、譜面を与えられたり要求されたりすれば何でも出来る、そんなプロフェッショナルなプレイヤー達だった。
有名バンドのプレイヤーは、それらのプロフェッショナルの中からの選りすぐり、ヘッド・ハンティングに次ぐヘッド・ハンティングの果てに集められた、エンタメ界のトップを張るスター・プレイヤー達だった。
この、問答無用の「プロフェッショナル・エンターテイメント」な音楽、スイング・ジャズへのアンチテーゼとして生まれたのが、つまり、ビバップであり、モダン・ジャズだ。
ビバップを想像したディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーやバド・パウエルは、彼ら自身は、「プロフェッショナルな」ミュージシャンだった。
それぞれ、様々なプロのビックバンドを渡り歩いたり、「(プレイヤー的に言えば)プロフェッショナルな音楽の代表格」であるクラシックを学んでいたり・・・そーいう人達だった。
つまり、基礎能力、バランスのとれた技術や音色を持っていた、それが必要な演奏をやれる人達だった。
その彼らが提示したもの、それは、あえて「プロフェッショナルな方向」や「エンターテイメントの方向」に反する、「アマチュア・アーティスト」の方向だった。
プロフェッショナルとして、客やクライアントを満足させるための、それだけの力量や普遍的な技術を持ち合わせる事や、エンターテイナーとして客やクライアントのために作品を創造する事に、完全に背を向けた方向だった。
言わば、あえてウケない、喜ばれない、自己満足の方向に、考えたワケだ。
・・・それもそのはず。
もともと、ビバップは、毎日毎日ウンザリするくらい仕事をやらされたプロフェッショナルなミュージシャン達の憂さ晴らし、つまりジャムセッションから生まれた「実験的な音楽」だ。
「・・・・ていうかさ。客にウケる事とか考えね〜で良いっつうなら、こーいう事も出来るんじゃね?W」
その発想で、どんどんあの手この手でアイデアが膨らみ・・・そーして出来あがった、いわば「音楽の新体系」だ。
勿論、スイング全盛の当時、そんなものは「ただの趣味・娯楽」的な音楽でしかなかった。
とても商業ベースの、売り物になるようなシロモノではなかった。
そもそも、本人達が、そんな事一つも考えちゃいない。
仕事でやる音楽に疲れ果てたから、音楽を嫌いにならないために、バランスをとるために、自己満足の自慰的な自分達だけの音楽をやっていた。
憂さ晴らし。
どこまでも、アマチュア的なアングラ主義の発想から生まれてきている。
ところが。
スイング・ジャズは、「プロフェッショナル・エンターテイメント音楽」として洗練され過ぎてしまって何も面白みのない、音楽という扱いを受けるようになった。つまり音楽として、完全に「停滞」してしまった。
客は、スイング以外のリズムの音楽、つまり、色々なラテンリズムとか、逆にストリングスとか、「スイング」や「ジャズ」以外の音楽を求めはじめた。で、「スイング・ジャズ」はレコード会社や興行師的には、「売れない商品」になり始めた。ビックバンドの解散とかも相次ぎ始めた。
・・・その時、目をつけられたのが、「アマチュア・アーティシズム音楽」であるビバップだ。
一部の、仕事でやる音楽に我慢できなくなっちゃった黒人ミュージシャン達が、場末のジャズクラブで夜な夜なシコシコと繰り広げて、勝手に作法というかルールや美的基準まで作っちゃって、何やら一生懸命やってる、あの「閉鎖的でマニアックな」音楽に目をつけた。
あのサービス精神に乏しい、自己満足の自己陶酔的音楽が、幸か不幸か、レコード会社や興行師達やラジオのプロデューサー達の目についたわけだ。
「・・・・よし。これを売り出してみようじゃないか」
・・・こーして大々的に陽の目を浴びたのがビバップであり、モダンジャズだった。
一部の「見る目がある」、センスのある音楽評論家や愛好家が、あやしげな未開の部族に他ならなかった彼らバップ・ミュージシャンを「発見・発掘」し、「彼らの音楽を聴いたり、それを理解する事がカッコいい!」みたいな、そーいう捏造的な宣伝工作を行った。
・・・もちろん、売り出す側もバカじゃない。
売り出したのは、ちゃんとプロフェッショナルとしての能力を持った、代表格のミュージシャンだけだった。後の有象無象は、あまり、真面目にプロモートしてない。
つまり、斬新な音楽としてビバップを売り出そうとしつつ、その実、やっぱり売り出すのは、それなりの力量を持ち、その世界での実績のあったミュージシャン達だったわけだ。・・・・このように、しっかり最低限の水準は維持してるあたりが・・・・巧いというか、セコいというかw
あくまで、圧倒的な、プロフェッショナル・エンターテイナーとしての力量を持っていたミュージシャンの「音ヂカラ」が基本だった。彼らの技術や音色が「主要成分」だった。つまり「定点」だった。
それで、しっかりと防御線というかセーフティ・ネットを張っておいてから、それでビバップなんていう、普通に考えたら売れるハズもない音楽を売り出した。大々的に。
なんだかわからないけど。
音楽的には意味不明でも、何か、ものすごくハイレベルである事くらいは、分かる。
普通に聞いたら、聴き辛い、どこがメロディでどこが間奏(ソロ)だかハッキリしない、ゴチャゴチャした音楽なのに・・・・何故か、かっこよく聞こえなくもない。
そこに、売り出す側が、あの手この手の売り口上を囁く。
「・・・・それは、ビバップだからです!w」
「全く、新しい、新時代の音楽だからです」
「だから、ハイレベル! だから、カッコいい! これが分かるとは、お客さん達は、とても聴く耳が肥えてらっしゃるw そうです。これが、今までの時代にはない新感覚の音楽なんです。 今までの音楽に飽きてしまった皆様のニーズに応える、新しいサウンドなんです!」
「誰にでも分かる、ポップス的なスイング・ジャズなんて・・・もう古い古い!w これからの時代の先を読める、先見の明のある音楽リスナーの皆さんは、もっとハイレベルな、このような音楽を鑑賞されるべきなんです!」
何か、「分からない方が悪い」「センスが無い」「時代おくれ」みたいな、そんくらいの逆差別を被るような、そんくらいのブームが捏造される。
それにいち早く食らいついたのが、フランスとかパリだ。
あの、普通に考えたら何が良いのかよく分からない系のものを勝手にアートだと認定して、「理解」し、賞賛する、あの国の文化人や知識人に、何だか過大に評価される始末。
・・・おかげで、普通に考えたら、全然ワケの分からない、何が良いんだか分かるハズのない、この「自己満足な憂さ晴らしの音楽」は、「何やら複雑な音楽哲学の基に構築された、現代クラシック音楽とタメを張る高尚なモダン・アートである」みたいに喧伝される。
「勘違い」される。
「衒学的な魅力・付加価値」を持ったワケだ。
で、逆輸入されて・・・・アメリカで大フィーバー。
49年に呼ばれてパリに演奏しに行ったマイルス・デイビスが、愚痴る。
「俺達は、パリでは、そりゃ盛大にウケまくったんだ。フランス(パリ)の人々は、俺らのやっている事をマトモに評価してくれたんだ。・・・ところがアメリカの連中は正統に評価しない。アメリカに帰ったら、仕事がなかった。俺達は国際的スターで、同時に無職ってワケだ。クソ!」
・・・・う〜むw
マイルス視点では、そうだろうけどもw
普通に、冷静に考えりゃ・・・むしろフランスの人々が「勘違い」してただけ、とも言えるんだけどw
マイルスは、そのショックで、数年にわたるヤク中生活に入り、ドロップアウトしちゃうわけだけども。
彼がクスリ漬けになっている間に、モダン・ジャズをとりまく状況は徐々に変わっていく。
フランスの先進的な文化をもった人々が認めるくらいだから・・・きっと、バップという音楽、モダン・ジャズという音楽は、何か本当に新しい文化、重要な音楽なんだろう。・・・そうに違いない。
そーいう背景があって。
スイング・ジャズの時代がコケて、ジャズシーンがいっぺんガタガタになって、多くの「プロフェッショナルなミュージシャン」が仕事を求めて西海岸のハリウッドに移って・・・・・そーいう状況の中で。
売れたい(仕事が欲しい)バップ・ミュージシャンと、売りたいレコード会社の、利害が一致して。
そこで生まれたのが、つまり、ハードバップ。・・・モダンジャズだ。
スイング・ジャズのリズムに、ビバップのイディオムに・・・・分かりやすいテーマ・メロディ、あるいはスタンダード・ナンバーを足してみた。
・・・これが、バカうけ。
アマチュア的でもあり、プロフェッショナル的でもあり、アーティスト的でもあり、エンターテイメント的でもある、節操のない、「オール・イン・ワンな音楽」が生まれたわけだ。
この「50年代のモダンジャズの黄金時代」の背景は、そーいうものだった。
言いかえれば。
アマチュアイズムやアーティシズムを内包しつつも、プロフェッショナリズムやエンターテイメントに傾いた時に、はじめてブレイクした音楽。
それが、モダン・ジャズだ。
・・・アレに近い。
今年公開された、某ロボットアニメの売れ方に近い。
簡単に、感覚的に楽しめるだけの分かりやすさやクオリティを維持しつつ、いくらでも深読み出来る意味不明さ、分かりにくさも混じっている。
それが、モダンジャズの魅力の元だ、と。
・・・さて。
時代は下って、現代。
もう、モダンジャズは、というか現代ジャズまで含めて、ジャズなんて音楽は、様式としての需要は残念ながら果てしなく低い音楽になってしまっている。
というか、何をもって、ジャズとするか、その定義すら曖昧になってきている。
先日、インドのポップス音楽について語った。
http://bassfukawa.blog15.fc2.com/blog-entry-325.html
http://www.youtube.com/watch?v=LnzGtX_rFSQ
・・・現代の、ボリウッドの作品は、「洗練」され過ぎて、もうそれがインドの作品なのかどうだかすらアヤフヤになってきてしまっている。
面白みがない。
言ってしまえば、インド映画的な要素が、果てしなく削ぎ落とされてしまっている。
プロフェッショナルなエンターテイメントの方向性にどんどん突き進んでいった結果、行き詰り、停滞し、ヨソのものと変わり映えのないシロモノになり果ててしまっている。
勿論、細かい所まで見て行けば、色々とあるのだろうけども。
パッと見た感じ、痛くない代わりに・・・・そう、面白みがない。
悪くも無いけど、良くも無いものになってしまっている。
そう。
洗練は、没個性。いい事ばかりじゃない。
・・・・・・・・・・・だが。
あえて言う!
80年代の、テクノ時代に育ち、新しいもの、洗練されたものが絶対に良いという価値観の中で育ってきた僕の、正直かつ素直なセンスで言えば。
「洗練は素晴らしい!」だ。
伝統的な木造建築の古い味わいを楽しむよりも、「・・・エアコンついてた方が過ごしやすいっしょ?」という身もフタも無い発想の方を求めるフシがある。
なんだかんだ言って、便利な方がいい。
文明ブラボー。
伝統よりも革新、過去よりも未来、既成概念よりも新コンセプト。
それが典型的な「都会っ子」の僕の正直な意見だ。
「面白さ」は、まず、「洗練」があってこそ。
洗練が確立された中で、コントロールされた野趣が混じる。
・・・そのくらいでいい。
自然なんて、テレビカメラの向こうだけでいい。
もしくは安心出来る虫の入らない睡眠場所とトイレ・風呂が確保された状態で、楽しめる程度でいい。
緑が欲しけりゃ植えりゃいいのだ。
コントロール出来ない自然など、いらない。
氾濫する河川も、有害な虫や猛獣がいる野生の森も、容赦なく砂嵐の吹きつける砂漠も、防寒具なしでは一瞬にして凍るような凍土も・・・・・要らない。
というか、命を落とすリスクを支払ってまで見たいようなものではない。
そりゃ、機会があったら見れるに越した事はないだろうけども。
それなりの防御策というか、安全確保がなされてでなければ、わざわざ見に行きたいほどのものでもない。
残念ながら、もはや人は、「洗練された文明の利器」なしじゃ、生きていけないのだ。
それくらい脆弱だし、「洗練されてないもの」を無理せず楽しめるほどタフじゃない。
・・・まず、そこを、ありのまま受け入れた方がいい。
人間は、生来、洗練されてないものを拒むように出来ているのだ。
我々先進諸国の人間が「未開の地」「洗練されてない土地」と見なしがちな第三世界の諸国や土地の人々の文化にも、それなりに、我々には及びもつかない「洗練」が含まれている。
ちゃんと獣道や獲物の足跡も読めず、毒ヘビのすぐ近くをウッカリ無警戒にあるいちゃったり、食べられる植物とそうでない植物の見わけもつかず、部族の風習(マナー)に全く敬意を持てないような無教養な人々は、彼らの常識からすれば、全く「洗練」されてないのだ。
現代日本人が日本人でない人々、いわゆる未開の土地の人々のフリをしたところで痛いだけだ。
関東の人間が無理に関西弁を使って、しかも使いこなせてると自分で勘違いするくらい、痛い。みっともない。恥ずかしい。
かぶれる必要は全くない。
かぶれる必要、染まる必要は全くないけれども、それはそれとして、必要に応じて異文化の常識や教養を学び、洗練の形を知る必要は、ある。
我々は、毎日風呂に入らないとかゆくなるし、消毒された水でなければ腹をこわすし、舗装された道以外を歩き続けたら足腰を痛めるし、テレビやネットや携帯がなければ不安と孤独で衰弱してしまう。
そんな、もはや自然の中で暮らすことなど出来やしない、洗練された文化・文明に馴染みきった存在である事を、まずは受け入れ、深く自覚していった方がいい。
洗練とは、すなわち、没個性だ。
「あるがまま」の天然の形を、人工的に加工し、使いやすく便利なように、みんなが納得する形に変形させていく作業に他ならない。
・・・・余計な感傷など、取っ払っちまった方がいい。
自分らしさ、個性、主観、主張・・・・そんなものは、二の次三の次なのだ。
・・・注意すべきは、そーいうのを無くすべきだ、と言っているのではない事。
二の次、三の次におくべきだ、と言っている。
第一に考えるべきは、やはり、洗練だ。
それが、人間の正直な、素直な考え方であり在り方だと思う。
別に、洗練されてないもの、自分のセンスにおいて洗練とは程遠いしろものを批判し、非難し、拒絶すべきだ、と言っているのではない。
自分自身の事について、素直に洗練の方向で考えるべきだ、と言っているのだ。
人は人。自分は自分。
人がどう思おうと、自分の本音に正直に生きるべきだ。
ミュージシャン的に考えりゃ、自分のやりたい事を正直にやるべきだ、と言っている。
もっと言えば、自分がどう思おうとも、思いたくとも、「自分のやりたい事」を正直にやるべきだ、目指すべきだ、と言っている。
ミュージシャンである時点で、全てのミュージシャンは良い音楽をやりたいと思っている。
全てのミュージシャンの、その根源には、「アマチュアイズム」があるわけだ。
その事を、まず、素直に認めてしまうべきだ。
アマチュアイズム、アマチュア的な考え方、ベクトルを持ち続ける事は、どちらかといえば、良くない事、非洗練的な事と、見做されがちだったりする。
違う。
「自分のために音楽をやる」という事が、それを全うする事が、洗練させる事が、どんだけ難しいか、という話だ。
それが出来る人は、稀有だと思う。
みんな、それが出来ない。
ついつい、中途半端にプロフェッショナル的なベクトルに考えたくなってしまう。
お客やクライアントに迎合する。
もし、真にアマチュアイズムを貫くならば、何者にも迎合してはならないのだ。
「自分のやりたい事をやる」という事を、どこまでも貫かなければならない。
という事は、人に良いと思われたいとか、うけたいとか、儲けたいとか、そーいう邪念でブレーキをかけるような真似は一切してはならない、のだ。
一点突破。
純粋に、混じり気無しの、自分のためだけに音楽をやる事を、その路線の上で洗練していかねばならない。
自分の音楽道を、貫かなければならない。
「自分がやりたいから音楽をやる。」・・・それ以外の夢だの希望だの大義名分だの、いっさい放棄しなけりゃならない。わりきらなければならない。感傷など捨て去らなければならない。
・・・けっして簡単な話じゃないのだ。
電気もガスも水道も無い、自然の土地で、独りで生きる。・・・それに近いシビアさがある。
それが出来ないのだったら。
素直に、都会の暮らしに、資本主義の文明社会に、どこまでも順応するしかない。
ストレスだ何だとぼやいているヒマはないのだ。
いや、ストレスはあるに決まっている。
自然とはかけ離れた、人工的な世界で生きてくわけだから。
むしろ、当然の事だ。
・・・その当然の事に、文句をつけてるヒマはない、という事だ。
「都会の暮らしは嫌だ。」
「じゃあ、山の中で暮らせば?自給自足で」
という話だ。
それが嫌ならば、大人しく都会の中で暮らしていくしかない。
服装、言葉、立ちふるまい、マナー・・・・・色々なルールでがんじがらめのこの社会で生きていくしか道はない。
そこに、「おかしいよ。生きるって、もっと楽しい事だろ?なんで、そんな思いをしなきゃならないんだ」とかケチをつける方が、おかしい。
文句を言うなら、山の中でも入って、資本主義経済や文明社会の歴史の恩恵から一切縁を切って生きてけばよい。
「自分の都合」で文句をつけようとするから、おかしい事になる。
「自分の都合」は、どこまでいっても「自分の都合」なのだ。
都会的洗練、文明的洗練とは、絶対に相容れない。
都会的洗練、文明的洗練とは、そーいう「自分の都合」や「個性」や「あるがままの形」をどんどん排除する方向で成り立っている。
野趣、という考え方もある。
だが、それは、まず第一に洗練ありき、だ。
洗練された中に、ほんの少し洗練されてないものをコントロールして織り交ぜるからこそ、一種の面白さや味が生まれる。
野趣が野趣として成立するためには、まずは、周囲をガッチリとした洗練で固める他ない。
でなければ、それは野趣として成立せず、ただの非洗練として、滑稽なものとして映る。
さて。
ここで、再び、モダンジャズという音楽について、考えてみる。
先述のとおり、モダンジャズは、もともと、「アマチュア・アーティストの音楽」だった。
主導したのは、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーといった、まぎれもないプロフェッショナルな技術と力量をもったミュージシャン達だったけれども、彼らの中の、アマチュアイズムが形を為し、作りだされたものこそ、ビバップであり、モダンジャズだった。
だが、その時点では、ただの、未開な洗練されてない、ただのアングラな趣味の音楽だった。
商業ベースに乗る事も、売り出される事も、指示される事もない、ただのムキだしな、天然の、非洗練な音楽でしかなかった。
それが、紆余曲折の果てに、ハードバップという形になり、人々が聴きやすい形に「洗練」されていって、ようやく大衆の支持を得られた。
洗練と野趣の関係が絶妙に成り立っていた、それを武器として発達した音楽だった。
ジャズは、モダン以降のジャズは、つまり、基本的に、「野趣(面白み)の微妙に混じった洗練的音楽」なのだ。
プロフェッショナリズムの中に、微妙にアマチュアイズムの混じっている音楽。
エンターテイメントの中に、微妙にアーティスティシズムの混じっている音楽。
・・・この野趣というものの分量・用法で、昔っからモダン・ジャズというものはややこしい事になってきた。
野趣、ある意味での非洗練が混じって無ければジャズではない。
それは一面の真理だ。
だが、それが、在り方を曇らす。
洗練されてない事、未熟な事に、正当性とか信憑性を付与してきた。
「都合の良い解釈」や「勘違い」の余地を生んできた。
いわく、「○○だってこうしてる」、「○○の音色は良くない。だが、それがいい」とか、そーいうアレコレ。
ダメな部分があるからこそジャズは良い、みたいな誤解を生んできた。
違う。
ダメなもんは、どこまで言ってもダメなのだ。
いくら、モダン・ジャズが「もともとアマチュア・アーティストの音楽だった」とかいっても、ダメだ。
そのままでは、ただの自己満足の自慰行為で終わってた事は言うまでも無い。
そんな、サービス精神の少ないものを、人は喜んで受け入れたりはしない。
「別に、人に理解されなくていい、全く支持されなくていい、拍手一つもらわなくてもオレはオレの音楽を貫くんだ!」
という、筋金入りのアマチュア主義とアーティスト主義で音楽をやれる人ならば、話は別だけど。
普通、そうじゃない。
みんな、やはり、どこかでプロフェッショナルな方向、エンターテイメントな方向を求めている。
「良い音楽」を求めている。
そして、その「良い音楽」とは、一種の方向に洗練されたものだ。洗練されているから、良い音楽なのだ。
さらに。
出来れば、その良い音楽を、人に共感され、喜んでもらえるものであってほしいと願っている。
音楽を通して、自分を認めてもらいたい、音楽を通じて人とコミュニケーションをとりたいと、思っている。
そう思わないで純粋に音楽をやれる人がいるというなら、ぜひ見てみたいものだ。
僕は、残念ながら、お目にかかった事はない。
いわゆるアマチュア・ミュージシャンという人々がいる。
僕は、先に書いたとおり、「アマチュア性」を批判した事など、一度もない。
というか、むしろ、音楽とは、第一義的にはアマチュア性が介在すべきものだとすら思っている。
つまり、自分のためにやるべきものだ、と思っている。
問題は、アマチュア・ミュージシャンの人が、アマチュアである事ではない。
「アマチュアでありながら、あるがままで、人の評価や支持を、ともすれば代価を得ようとする」その事について、批判的なのだ。
音楽なんて好きにやればいい。
ただ、好きな事をやる事について、別に人から文句を言われる事ではないけれども、人から褒めてもらえるものでもない事は深く理解しなきゃならない、という事だ。
そして、時として、「音楽は洗練されてしかるべきものだ」と考える種類の人々から批判の対象となる覚悟は持っておく方がいい、という事を言っているのだ。
「アマチュアだったら何をしてもいい」
「アマチュアだったら何をしても許される」
というのは、完全に誤解だ。逆だ。
トーゼン、セッションについてもそう。
「アマチュアだから、客だから、好きな事が出来る」という意見は、完全な誤解というか、都合の良い拡大解釈というものであって。
もし、それなりのトレーニングを重ねていない、ただのアマチュア・ミュージシャンが、本当に好きな事をやりたいのであれば、音楽でストレス発散をしたいのであれば、自分でしかるべきギャランティ払ってメンバーを集めて、身銭をきって場所を用意して、それで存分に「練習なりリハーサルなり」をすべきなのだ。
勿論、人前で聴かすものでもない。むしろ足を運んで聴いて頂くための、しかるべき迷惑料なり慰謝料なりをお支払いした上で「聴いて頂く」べきだろう。
・・・・まあ、ギリギリ、自分の知り合いを集めるくらいの事までは許されるだろう。「発表会」という事で。自分でハコ代を支払って、スペースを用意とかするならば。
だが、もし、そうではなく、普通にライブハウスとかでチャージをとって、人様からお金を頂いて演奏する、という事であれば。
ただのアマチュアでは、それは、許されない。
ちゃんと、それに見合うだけのものを提供出来る、それなりの力量や技術や修練がいる。
金の発生する場所で演奏するからには、必ずプロフェッショナリズムが求められるのだ。
だから、セッションというものを軽く見てはならないのだ。
セッションだろうが何だろうが、金の発生する場所で演奏する以上、ある程度のプロフェッショナリズムが求められるのだ。
「金を払って参加するのだから、何をしてもいい」
というのも勘違い。
「金を払うだけ」ならば、大人しく客席に座って見ていて下さい、という話なのだ。チャージは、チャージ(席料)で、終わり。
別に、「人前で好きな事をしても許される」サービスの料金じゃない。
そんな都合のいい、安い話なんて、ない。
セッションは、「ジャズを愛好し、勉強している人達が、互いに協力しあって切磋琢磨していくための場」に他ならない。
あくまで、各自が取り組んでいる事が、他のプレイヤーのそれのプラスになる事が前提で成立している。
他のプレイヤーが腕を磨くために協力をし、自身も腕を磨いたり、上を目指すために真摯に取り組むからこそ、人前で演奏する事が許されるのだ。
だから、チャージ以上の金額が免除されるのだ。
お互い様、という事で。
たま〜に、そこの所をはきちがえた参加者が、あまりにも傍若無人な振る舞いをする事がある。
そーいう時に、ホストがおさめる。
僕のように、ゴチャゴチャと理屈を述べて、比較的温和に問題を解決する人もいれば、問答無用に怒鳴りつけて追い出す人もいるだろうし、演奏で「己の思い違い」を痛感させて黙らせる、というやり方もあるだろうけども。
つまり。
人前で演奏する、という事を、簡単に考えちゃいけない、という事だ。
ジャイアン・コンサートじゃないけれども。
洗練されてない「不快な音楽」を聴かされる方は、たまったもんじゃない。
ジャイアンの歌を、「あれはあれで、個性的で、面白みがあっていいねw」と思えるマニアックな一部の人々はともかく。
多くの人々は、そうじゃない。
洗練を望んでいるのだ。
その洗練の中に、微妙に野趣がまじる事を望んでいるのだ。
「あるがままを認めて!」「僕の個性を評価してよ!」・・・なんて子供じみた理屈が通用する世界じゃないのだ。
アマチュア・バンドにだって、それなりのルールというか、暗黙の了解コードがある。
というか、むしろ、アマチュア的である分、そのルールは、厳しい。
プロのバンドならば、仕事のために、とわりきって、ソリの合わないミュージシャンやバンドでも、平気でやる。やれなきゃならない。
だが、アマチュア・バンドは、そうじゃない。
自分のための音楽をやるのだから、自分のための音楽を著しく阻害するようなメンバーは絶対に入れない。
自分のためにならない、つまり、組んでも面白くない、何のメリットもない人とは、組まない。バンドをやらない。
プロは、そこら辺、ある意味でルーズだ。
金になるならば、あるいは自分の音楽にプラスになると判断すれば、結構誰とでもやれる。
というか、誰とでもやれないくらいじゃ自分のプロフェッショナリズムが危うくなる。
客やクライアントのために演奏する事が出来る、というのがプロフェッショナリズムってヤツだからだ。
出来ないと言えない。やれないと言えない。
言わない、言えない。
プロは、やる音楽のルールを選ばない。
ただし。
最低限の職業責任はある。
どうやっても、客やクライアントを満足させられないと判断すれば、断る。
出来ない事を引き受けるような、そんな無責任な事は、しない。
客やクライアントを喜ばせ、満足させるように、べストを尽くすのがプロだ。
そこに、自分の都合など、加えちゃならない。
音楽をやるのは当たり前。プロならば。
そこに自分の都合、あるいは条件を、付け加えちゃいけない。
「これじゃ出来ない」「これじゃやれない」を言った瞬間、プロ性は失われる。
自分の都合で、ものを言っちゃいけないのだ。
後は、アーティストであるか、エンターテイナーであるか、の問題だ。
自分のための作品を作るか、人のための作品を作るか。
自分で納得するために音楽をやるか、人が納得するために音楽をやるか。
・・・まあ、プロフェッショナルな(それだけの力量・技術・知識)を持ったプレイヤーであれば、どっちに転んでも、ある程度は自由だけども。
何をやっても、最低限のプロフェッショナル性を保てる限り、人前で演奏する資格は有する。
が、それが無い限り、どっちをやるにしても、どーにもならない。
つまり、アマチュア的なままでアーティストの方向に進んだら誰にも評価されなくなるし、エンターテイメントの方向に進んだら痛く寒い状況になる。
僕が、自分でバンドを率いて音楽活動をしていた頃の話。
僕の音楽は、多分にアマチュアイズムを混ぜたものだった。
人前で演奏するにしちゃ、かなりヤバいくらい、極端なまでの野趣を織り交ぜたものだった。
僕の中では野趣のつもりだったけれども、まあ、客観的に見れば、野趣を通り越して、ただの非洗練、要するに下手くそかあるいはジャズではない音楽、になっちゃってたのは間違いないだろう。
プロフェッショナルの方向のトレーニングは欠かした事はないし、常にプロ意識をもって音楽に望んでいた。
が。
結果として、僕の音楽は、客やクライアントのためのものでない音楽、独りよがりのアマチュア的な音楽に成り果ててしまっていた。
主観はどうあれ。
「結果が全て」だ。
それに気づいたので、僕は、昨年の秋に、「自分の音楽活動」を一切停止したのだ。
それから僕がやってきたのは、「プロフェッショナルの音楽」だった。
自分の主観、都合を一切排し、必要な音を演奏する事。
それをやれる技術や考え方を再軍備し、ひたすら、それをこなす事だけを考えて音楽をやってきた。
だが。
それすらも、「自分の都合」であった事を知る。
自分のスタイルを放棄したようでいて、それ自体がスタイルになっていた。
気づかないうちに。
余計な事をしない。必要な音を入れる。間違いなく仕事をこなす。
・・・・何が余計な事か、何が必要な音か。・・・何が間違いで、何がそうでないか。
この日の昼間、色々とヒントをもらって、夜の現場に向うまで考えに考えたのだが。
つまり、ジャズは、洗練と野趣を上手く組み合わせてやる音楽なのだ。
完全にアマチュアイズムを排したようなやり方は、無私のアプローチは、それはそれでジャズにはならない。
会話をするには、自分の意見を述べねばならない。
ただ、相手の話を聞くだけじゃダメなのだ。
自分の話もキッチリしなけりゃならない。
つまり。
自分の中の、アマチュア的な部分をも、キッチリ織り込んでいかなければならない。
プロフェッショナリズムだけじゃ、ジャズは出来ないのだ。
演奏から、音楽から、自分の都合を排していく事。
ミュージシャンならば、誰でも、良い音楽を求めるものだが・・・・・「良い音楽をやるために」こうでなくちゃならない、自分の得意な事を出せる状況を作らなくちゃならない、自分の得意技やスタイルをやれるようにしなきゃならない・・・というのは、それは完全に「自分の都合」だ。
自分の都合を、音楽から、いったん排除してみる。
そうする事をも自分のため、自分の作品のため、と思えるように努力してみる。
あらゆる自分の都合を払いのけ、音楽を行う事に定点を定め、邁進する事。
・・・それが、洗練につながり、野趣にもつながっていくのではないか、と。
それに対して、「それじゃお客さんが面白くないだろう・・・」とか、いちいち考える必要はなく。
全力でジャズをやればいい。
全力でジャズをやって、それでうけなければ、それはジャズのせいか、自分が未熟なのか、そのどちらかでしかない事は分かる。
ここを鮮明にする事で、物事が分かりやすくなる。
この日。
「自分の都合を、音楽に交えない」というコンセプトを島野君に何やら一生懸命語ってた気がするw
・・・・まあ。見てくれの問題や、MCについての問題は、直接的な音楽の問題ではないのでw
僕の都合や主観を思いっきり交えてるわけですがwwwwww
A 見てくれの問題
色々と考えながら車で移動し。
夜の現場の付近の駐車場に車を入れ、その中で正装からTシャツ・ジーンズという「仕事着」に着替えをする。
基本、人間がだらしないせいか、ラフな格好になると・・・・死ぬほど落ち着くw
襟付きの服装を着て演奏する時の僕は、完全に「仕事モード」となる。
一方で、こーいうラフな格好で演奏する時の僕は、どちらかと言えば「ライブ・モード」となる。
この違いは大きい。
まず。
フォーマルなスーツを着て演奏する時。
余計な動きをなるべくしない。
汗をかいたり、派手な動きをしたりして、「スーツが破けたりしないように気を使って」演奏する。
極力省エネ・モードで演奏する。
おかげで、体ではなく頭を使う事になる。
・・・ここ、とても大きい。
余計な力みとかを可能な限り排除するワケで。
見た目の動き、視覚的な効果(面白み)をほとんど無くす。
ベースが上のポジションから下のポジションまで、派手に、バタバタと縦横無尽に行ったり来たりする・・・的な動きって奴は、ライブの場でこそ求められるけども、フォーマルな現場で、フォーマルな格好をしてやると、実に暑苦しいし・・・・「見ためがウルサイ」感じになる。
あと・・・・・そう。
フォーマルな格好をして演奏する時は、なるべく上半身を揺らさない。
全身、直立不動な感じにして、なるべく微動だにせず演奏する。
これは、はるか昔、プロ仕事に駆り出されまくった時に叩き込まれた事だ。
なるべく個性を出さない。
無表情にやる。感情を面に出さない。なるべく人間味を出さない。
ものいわぬ音楽マシーン、「プレイヤー」という生き物になったつもりで、演奏する。
BGM系の仕事の時、ミュージシャンはあくまで場の引立て役に徹さなけりゃならない。
そーいう「自己主張」をすると、どっちが主役だか分からなくなる。
だから、なるべく、大人しくする。
これが、ラフな格好のライブだと色々と変わってくる。
自分の表現、自分の音楽の追及を停止した今、だいぶ以前と違って、スーツを着てる時のような感じで「非人間的に」演奏する事が増えてきたが・・・それでも、やはり、スーツを着て演奏する時に比べて、だいぶ「ラフ」になる。
自分のリーダー・ライブを展開してた時には、表情や動きまでが、表現の一つだった。
バンドに緊張感を持たすために、不機嫌そうな表情で首を傾げたり、溜息まじりに首を振ったり、時たまニヤリと笑って見せたり、「良い感じだ」と言わんばかりに頷いたり・・・・音楽にノッている事をあらわすために上体を大きく揺らしながら弾いたり、リズムをとったり、足でアクセントの箇所で踏み込んだり、そーいうゼスチャーを織り交ぜながら演奏していた。
そーいう「忙しい」感じを基本に置いていたから、スローの曲とかで、まったく微動だにせず演奏したりすると、それだけで一つの意志表示になる。息づかいとか間合いまでをも表現に取り入れてた。
それらも含めての「音楽」だった。
そのコンセプトを学んだのは、学生時代に衛星放送を知り合いに頼んで録画してもらった、ビリー・シーン率いるナイアシンのブルーノート・ライブからだった。
http://www.youtube.com/watch?v=nfPrf_ZsNis
さすがロック・アーティストw
ブルーノート東京というジャズのハコで、椅子に座って、演奏している。
それだけなのに・・・魅せる魅せるw
これは、実際、かなり影響を受けているw
だから、その影響で、僕が最初にレギュラー・グループを作った時、こっち系のサウンドにしようとしてたくらいだw
だから、ロック畑出身のミュージシャンを集めてバンドを組んだりしたのだw
初期の頃なんて、『黒Tシャツにジーンズ』とかメンバーに指定してたくらいだw
黒Tシャツにジーンズ。
これが、僕にとっての、ライブ演奏の仕事着だった。
気合いが入る。
ジャズ・ミュージシャンっぽい格好とか、自分から選ぶ事はない。
たまに仕事で、「まあ、ラフ過ぎない格好でw」とか服装を指定された時は、しょーがないのでせめてもの抵抗で黒Yシャツにスーツ、みたいな格好をする時はある。
が、基本、何もいわれなきゃ(黒とか灰色とかの無地の)Tシャツに、ジーンズだ。
・・・たぶん、この服装のセンスの無さで無数の仕事を「一回こっきり」にしてきたハズだと思うw
「服装は?」と聞いて、「自由でいいよw」と言われて、この格好で行ったら、「・・・あれ?」って事にちょくちょくなった覚えがある。
・・・・だんだん賢くなって、「服装コードは自由」とか言われても、一応、車の中に念のために「黒Yシャツ、スーツ」を装備していく事が増えていった。現場に到着して、周りのメンツが、「ジャズ・ミュージシャンっぽい格好」をしているか、「ライブっぽい格好」をしているか、で判断するようになったが。空気を読むようにはなったが。
何にせよ、基本、黒無地Tシャツにジーンズ。ついでに手ぬぐい。
・・・このガテン系のファッションが、僕の「仕事着」だ。
昔は冬場でもそれで押し通してたが、最近では冬場は黒無地のトレーナー腕まくりかパーカー腕まくり、という具合になっている。
アロハだろうが何だろうが、「襟がついている」というだけで、抵抗がある。
少なくとも、普段着では、「ボタンがついてる服」なんて絶対に着ない。
・・・なんていうか、こう・・・・息が詰まるのだ。
首筋は出来る限り解放的に。
腕はまくる。
演奏する時に、「袖」が邪魔になるので。
大体、服装で自分を「良く」見せよう、なんて思っちゃいない。
何をどうめかしこんだところで、この「デブで不細工な仏頂面」は誤魔化しようがない。
誤魔化せないものを無理に誤魔化しても痛いだけだ。
だから、むしろ、それを全面に押し出す方向に考えていた。
洗練とか、オシャレとか、そーいう方向に持ってくよりも、むしろ、そーいうダサさを全面に押し出してしまった方がいい。
黒無地Tシャツにジーンズという、センスもへったくれもない地味な(逆に濃い)格好をデフォルトにしてしまって、個性的にやってった方がいい。
「良い」と思われるよりも、むしろ「印象的」に。
変にオシャレに対しての意識やセンスがあると思わせない方がいい。
・・・なぜか、そーいうものに対してうるさい人達と縁のある人生を送ってきたもんで、そーいう人達と付き合う時、むしろ、変に出来ないオシャレをしようと足掻くよりも「そーいうの別に興味無いんでw」という姿勢を全面に打ち出した方が何も言われないで済むしw
そーいう「オシャレに対して完全非武装な姿勢」が、むしろ、どこへでも行ける格好である事をかなり若いウチに学んでいた。
金もセンスもない人間が中途半端にオシャレに精を出すよりも、むしろ、何の飾りっけもない格好の方が、吉祥寺でも原宿でもどこでもうろつける格好である事は知っていた。
あそこら辺の街を、変にシャレっけ出してうろつくと、「・・・その格好どうよ?」的な視線にさらされる。
ならば、最初っから、センスもへったくれもない格好で、「ファッション的に丸腰な不戦スタイル」でいた方が、攻撃的視線にさらされないで済む。
若いころ、あそこら辺の街によくライブをしたり見たりしに出かけたけど、それが結論だった。
「服装に使う予算は年間1万円以下」
金があったらCDや教則本や楽器周辺アイテムやライブ鑑賞やセッションとかスタジオ代に使いたい。
・・・なんだかんだいって、ジャズの世界は、見た目よりもサウンド重視の世界だ。
見た目で人気は得られない。
もし、見た目で人気が得られたり、それで上手くなれる世界だったりしたら、全然違うアプローチをしてたかも知れないけれども。
どーあがいたって、ロックやポップスの世界に比べて、全体的にダサダサな世界なわけでw
「ダサいけど腕のあるミュージシャン」と「カッコ良いけど腕の無いミュージシャン」だったら、圧倒的に前者が求められるのが、ジャズの世界だ。
まず、腕があって何ぼ。
次に、やる気とか根性とか誠意。
見てくれは一番最後。造形やファッション性など、ほとんど問われない。
「・・・もう少し、格好とか、どーにかなんない?」とか、滅多に言われない。
というか、あまり、そーいう事を言う方が、「あ、こいつ、音楽よりも見た目とか重視しちゃってるよ。・・・チャラいなw」とか思われたりしかねないので、ある意味タブーな発言になっている。
・・・まあ、あんまり、あからさまにダサダサなファッションをするってのも、逆に「個性とか狙ってんじゃないの?」とか思われたりしちゃうので、ワザとらしい格好も出来なかったりするのだが。
ある意味、服装というものに関して、徹底的に無難な方向を狙う方がいい。
だから、僕の演奏衣装(仕事着)は、大きく分けて、三つある。
フォーマルな服装、黒Yシャツのスーツ姿、黒Tシャツにジーンズ。
それが「仕事着」だ。
「仕事着」なんだから、別に、毎度同じ格好で構わない。
フリー時代の山下洋輔氏も、黒Tシャツにズボンという格好を作業着にして、演奏が終わるたびに汗だくの作業着を着替えて酒を飲んでた、みたいな感じだったそうな。氏のエッセイによれば。
黒系の無地のTシャツに、ジーンズ。
その地味な、無愛想極まりない格好が、むしろ有効だったりする。
変に「愛想」なんてふりまくらない方がいい。
足元を見られる。
別に、見てくれでどー思われても構わない。
音だけを聴いていくれ。
そーいう「フリ」をしていた。
・・・・まあ、実際は、先述のとおり、ガン飛ばしたり、神経質そうにクビを振ったり、時たま「・・・・そうだ!」的に笑みを浮かべたり・・・・そーいう音楽以外のもの(ゼスチャー)を「演出」に使ってたりしたのワケだけどもw
それをやるにも、だから、地味な無愛想な格好の方が効果的なのだ。
パントマイム的に、表情や動きも表現出来るし。
この「仕事着」は、ずっと続けているうちに、正装とは違った意味で「気が引き締まる」服装になった。
というか。
普段着と変わらない、ラフな格好。
普段の姿、ありのままの自分を、人前に晒す。
ONもOFFもない。
仕事とプライベートが直結される。
名前(本名)を晒して、HPを持って、今書いてるようにありのままに人間を晒すのと同じ。
音楽、演奏表現をもって、僕の人となりが判断される。
・・・もう、逃げも隠れも出来ないし、しない。
どこに行っても、俺は俺。
そういう覚悟というか、腹の括り方が出来るようになった。
飾らない。
ありのまま。
所詮、どこへ行って何をしようと、俺は俺。変わらない。
だから、ステージに上がろうが、お客さんに見られようが、写真をとられようが、音源をとられようが、動画をとられようが、それをネットにUPされようが、全然かまわない。
全ての僕の行為は、僕の自己責任において、在る。
ダメなもんはダメだし、良いもんは良い。
それは僕が決める事じゃない。
僕以外の誰かが決める事だ。
だから、それを、こっちから操作しようとしても、無駄。
元々、あまり表裏の無い人間だったような気がするけど、良くも悪くも、その傾向が一気に進んだ。
大体。
変に、格好つけたところで、タカが知れている。
格好つけるならつけるで、とことんやらないと、サマにならない。
メジャー系やロック畑で活動してるミュージシャンの知人を見てると、本当に思う。
(・・・ああ、なんか大変ですなぁ・・・・)
彼らは、喋り方とか日頃の服装まで、表現になっちゃってるので、僕などから見ると、とても窮屈そうに見える。・・・まあ、彼らは、それが「自然体」なんだろうけども。
あの領域は、パンピー(一般人)がちょっとやそっと格好つけたくらいじゃ、真似出来ない。
彼ら商業ベースで活動してるロック・ギタリストとか見てると、ナルシストに自分に酔っちゃってるだけのような格好つけではなく、格好つけるにもテクがあるのだ、という事をつくづく思い知らされる。
見せ方、というのも、それはそれでキビシー世界なのだ。
冒頭で紹介したビリー・シーンなどは、その方向に洗練されきっている。
このライブの動画、冷静に見てしまえば、細かい粗さやミスが結構ある事に気づく。
というか、ライブ性、見た目を重視するあまり、そーいう事になっちゃってる部分が多々あるようにも思われるのだけれども。
・・・そんな余計なアクションとかとらずに、冷静に演奏に集中してたら、もっと高いクオリティにする事だって可能だろうに。
が。
そーいう失点を補って余りある見た目のカッコ良さとかオーラとか、そーいうものがあるわけだ。
・・・ていうか、逆の見方をすれば、ここまでアクションとかに見た目にこだわっておいて、このレベルの演奏が出来る、というのは、逆に凄い。
「自己陶酔しているように見せる」
「音楽に没頭しているように思わせる」
これがロック系のアーティストの凄い所でもあるし、テクニックでもある。
そして、その実、思いっきり打算的だったりするのがミソだw
これを、都合の良い、部分だけで切り取って、「アクションの部分だけ真似する」とか、「陶酔しているっぽい感じを真似する」とか、「アクションのために演奏が多少粗くなっても仕方ない」とか、そーいう事を中途半端に真似した所で、中途半端に終わる。
特に、全体的にダサい事に定評があるジャズのミュージシャンが、中途半端にロック・アーティストのモノマネをしたようなファッションが、一番痛い。
中途半端にやるくらいならば、最初っから「ファッションなんて考えてませんw」という「非武装スタイル」で行った方がはるかにマシだ。
あるいは、ジャズ・ミュージシャン的に、ノーネクタイにジャケットみたいな、「ラフな姿」で行った方がいい。
「サラリーマンみたいなあまりに普通のスーツ姿」は、それはそれで、煙たがられる場合がある。
仕事帰りのアマチュア・ミュージシャンがステージに上がっちゃった、的な感じになっちゃうので、店側に拒否られる場合がある。
過去に黒Tシャツにジーンズというラフ過ぎる格好の僕が何のおとがめも無く、真面目なスーツ姿で店に入ったミュージシャンが「何だその格好は!・・・どーにかしてこい!」と説教される、なんて事があった。
・・・・つまり、黒無地のTシャツにジーンズという普段着じみた格好の方が、まだマシだ、とw
僕が言うのもなんだが、実に妙な世界だw
店によって、服装コードが違うw
真面目な格好がいいとは限らないw
スクエア過ぎる事で注意されたりするw
まあ、たまに、トーゼンながら僕の仕事着もケチをつけられる場合があったりする。
だから、初めての店でやる場合は、一応、念のために上に一枚羽織るものや、黒Yシャツにスラックスという準正装を一応装備していくのだw
たまに、タンクトップに短パンにビーチサンダル、という気合の入った「ラフ・スタイル」で演奏する人もいたりする。・・・・過去に一度、マッチョな肩に刺青(タトゥー)を入れて、サングラスのオールバックに顎髭にビーサンという、夏の夜の湘南のコンビニで遭遇しそうな感じの「ピアニスト」の人と共演した事があったが・・・・ビビって誰も注意しなかったw
話せば気さくで、演奏もアグレッシブで、実に音楽に対して真摯な人だったのだけれども・・・結構意気投合したもんだったけれども・・・・あれから一度もお目にかかってないw
一体どーしてるんだろうw
実にコンテンポラリーな感じで、かっこいいプレイヤーだったのだけれども。
・・・ジャズの店の服装コードにひっかかって、演奏出来なくなったんじゃないか、って気がするw
まあ、どっちかっていえば、ジャズの世界は、「見た目よりも演奏で個性を出せよ!」という世界なので、あまり見た目で個性を発揮する方向にいかない方が無難である事は間違いない。
ていうか、見た目で個性を発揮すると、むしろ失点になる世界だ。
その失点をとりかえす分くらい演奏で得点しなきゃならなくなる。
そのくらい得点出来る余裕というか自信があるなら、見た目で個性を発揮してもいいけど。
僕には、とてもとても。
せいぜい、黒系Tシャツにジーンズ、だ。
それですら、「若ぶってんじゃない?」とか「ジャズっぽくない」とか、たまにツッコミを頂くわけだし。
この前、あつく語られた。
「府川さんね、あんた、もうそろそろ若手じゃないんだからさ・・・・もう少し、ジャズ・ミュージシャンっぽい格好とか、しておこうよ。・・・ねえ。何も、わざわざ、それで(お客さんに)色眼鏡で見られる事もないと思うんだよ。うん。勿体ないよ。」
・・・・・・・・・・・・・・う〜wwww
・・・・ちなみに。
僕の十代の頃の将来の進路希望は、「とりあえず、夜型生活が可能でスーツ着ないで済む仕事」だったw
小説家とか、ゲームデザイナーとか、イラストレーターとかw
「決まった時間に起きて、通勤して、決められた仕事をしなきゃいけない、そーいう系の仕事は絶対無理だし、やらねぇ!」
と十代の頃に決めてた。
それでミュージシャンの道を選んだわけだけど。
・・・なぜだか不思議な事に、ミュージシャン稼業をやるために、最初の数年間はスーツを着る仕事ばっかりやるハメになったww
水商売の店で、BGM演奏を中心に演奏してたのでw
・・・・あれ〜・・・・?w
おかしいなぁ・・・・・?w
実際、僕が黒系Tシャツにジーンズというラフなスタイルだけで演奏するようになったのは、ほとんど「プロ現場での演奏」をやらなくなった時期くらいからだ。
ま。
色々あって、依然ほど、「ラフなスタイルへのこだわり」みたいなものは無くなってきたが。
それでも、演奏のしやすさの面で、やはり、襟なし・袖なし、というのは確保しておきたい今日この頃w
昔のバンドとかで、よくスーツに腕まくりってあったでしょ。
・・・・アレの気持ち、よーく分かるのだ。
普通に、スーツの袖って、演奏の邪魔になる。
特にエレキベースなんて、特に。
見た目よりも機能性を重視して、あーいう事になってたんだと思う。
実際のところ、よく分からんけど。
・・・本当に、アレがカッコイイと思ってたのかもしれないし、それが当時のセンスだったのかも知れないけどw
・・・まあ、最初にカッコイイと思ったウッド・ベーシストが、ジョン・パティトゥッチだった、というせいもあるけれどもw
http://www.youtube.com/watch?v=LZWrtZIGHd4
http://www.youtube.com/watch?v=pLjxHTN9PB8
http://www.youtube.com/watch?v=KICHuE92tts
http://www.youtube.com/watch?v=lHttj-a5jX4
http://www.youtube.com/watch?v=F2aebF5VlFI
・・・ああ。
はいはい。
分かってます。
見た目も演奏も、全然違います。
ええ。
そこら辺は、ちょっと横においといて下さい。
まあ、今じゃ、多少音楽の好みも違ってきているし、さすがに当時とは考え方も変わってきているけれども。
とりあえず、ミュージシャンになる事を決意した頃の僕の中のウッド・ベーシストの姿とは、こーち系のモノだった。
(はるか後になって、ジョン・パティトゥッチがどちらかと言えばジャズ的でない系統のベーシストで、彼の演奏しているスタイルがジャズ的でないと言われたりするスタイルであると、そのように認識されている事を知るw)
この人が、僕がウッドベーシスト、ジャズベーシストを目指す直接のキッカケになったプレイヤーであり、この人らがやってた「コンテンポラリー・ジャズ・サウンド」というヤツが僕の目指すスタイルだった。
・・・で、僕が好きだった「コンテンポラリー・ジャズ」っての、つまり、このPA入りまくった、ガンガンに弾きまくりドラムが叩きまくるスタイルであってw
・・・ぶっちゃけ、ハーモニーとか、コードとかは二の次三の次w
ていうか、むしろ、「・・・・何で、ゴチャゴチャ分かりにくくするのかなぁ・・・それがたまに傷w」くらいに思ってたw
まあ、要するに、当時はきっと、全体的にロック的なものを求めてたんだろうw もっと若かったしw
こーいう事がしたくて、勉強したくてジャズの道についたのにw
僕が最初に突入したのは、スーツを着て、地味〜に、邪魔にならないように黙々と演奏する、あの世界だったw
でも、どーしたらいいか分からなかったから、「きっと、こーいう事を続けてけば、いつかあーいうパティトゥッチとかみたいな方向につながるんだ」とか夢とか希望を持って、めげずに頑張っちゃってたワケだw
・・・まあ、基本的に、全然別物だった、という事を後で知るわけだがw
それを知った時には、もう後の祭りw
今の僕のセンスや音楽性は、すっかり「もっとジャズ的、もっとアコースティックな音楽の方向」に染まってしまっているw
・・・・・・・・ふw
懐かしい我が青春の日々よw
今でも、たまに、こーいう音楽を聴こうとは思うけど・・・・あまり、自分でやりたいとか思わないw
・・・・あ。
見た目の話だった。
そういや。
そう。
見てくれ。
基本ファッション。
・・・・まだ、変える気はない。
なぜなら、Tシャツにジーンズというのが、一番、演奏しやすいし、その意味で必然があるからだ。
・・・・ていうか、もう、あまりメジャー志向というか、「成功してやろう!」的なものがなくなっちゃったので・・・・・・どこにいようとも、どこでやろうとも、ベースを弾き続ける事には変わりはないワケだし。
見た目にこだわる以前に、やるべき事、勉強したり練習したりすべき事がいくらでもあると思ってるし。
が。
もし。
共演する事で音楽的に面白い事になるような種類の人々と演奏出来るようになった時。自分ルールではなく、あちらのルールで五分で渡りあえるようになった時。
彼らと演奏するために、それなりの服装というか、「音楽以前の問題で相手にされないようになるため」に、それなりに服装というものにもう少し気を使わなきゃいけなくなる事もあるかも知れない、くらいには考えている。
彼らと演奏するために、面白い事をするために。
そーいう事を考えなきゃならない日もくるかも知れない。
ただ。
それは、まだ、もう少し先の話。
見た目にこだわるよりも先に、やるべき事が山ほどある。・・・と思ってる。
だから、まだ、トーブン、僕の仕事着(演奏時の服装)は黒系Tシャツにジーンズだろう。・・・特に、「襟付きで」とか「あまりラフ過ぎない格好でw」とか指定されない限りはw
「僕の都合」によりw
・・・ていうか、その程度で僕というミュージシャンの評価に影響が出るくらいだったら、僕はその程度のものでしかないという事だし。
2009年07月02日17:49
B MC論
見た目の問題、服装の問題から、だいぶ話が脱線したw
元に戻そうw
ラフな格好、「ライブの仕事着」に着替えた僕は、夜の現場に向かう。
この日(27日)の夜は、金沢文庫ブルームーンで、ピアノRonnieさんのライブ&セッションだった。
メンバーは例によって、島野和樹くん(ds)と僕のトリオ。
・・・まあ、ある意味で、昼間の仕事とは180度くらい違う演奏だとも言える。
ていうか、先週のライブ演奏は、どれも、ものの見事に性質からスタイルから美学から何もかも違う感じで、ある意味刺激的だったのだが。
この日の昼と夜のギャップは凄かった。
頭の切り替えってヤツが大変だ。
・・・・ちょっと切り替わりきってないw
スーツを着た時のモード、あまり余計な事を喋らない、ローテンションなモードで、現場に入る.
・・・・まあ。
結構、いつもそうだけどw
この日の僕は、いつも以上にMCに対して「付き合い」が悪かった。
基本的に、僕は、滅多な事でMCに絡んだりしないのだ。
たまにMCの人が、コッチに話題を振ってきたり、マイクを向けてくることがあるが・・・・あれは正直勘弁してもらいたい。
僕は、喋るのが得意じゃない。
たまに自虐的な皮肉なネタでウケをとる事もあるけど、基本的には面白い事は喋れない。
あるいは長い。クドイ。
もし、尺で10分くらいもらえるってんなら、延々と喋っちゃってもいいけど。
そんな、ちょっとマイクを向けられて、スポットで面白い事を言え、とか言われても困る。
とりあえず、自分のリーダー・ライブの時は、曲名と作曲者だけコールして、それだけで演奏する。
ていうか、それ以上、何を喋れ、と?
この、口下手な、ジョークの一つも飛ばせない僕に?
ていうか、可能な限り、MCはしない方向で考えている。
僕がリーダーの時には。
MCなんて出来るだけしたくないけども、それがバンマスの仕事だからやる。
それだけ。
・・・正直、「MCはバンマスの仕事」という感覚がある。
だから、自分がバンマスでもない限り、出来る限り、そんな「仕事」はやりたくないのだ。
なので。
サイドメンの時、「仕事」を一切こっちに回さないでもらいたい。
というのが本音。
たまに、MCという仕事をこなしきれず、サイドメンにその仕事をまわすヴォーカリストの人やフロントの人がいる。
・・・はっきり言って、メンドーくさいし。
そんな事よりも、こっちは、出来る限り、仕事(演奏)の事を考えたいのだ。
あんまりにも、その傾向が強い人には、僕は、キッパリと言う。
MCは「仕事」ですので、大変でしょうが、是非、「孤独」に頑張ってください。(二コリw)
ひとまず、基本的に「ソロ」で片づけてください。完結させて下さい。
バッキングとかインタープレイとか(つまり、相槌とか掛け合いとか)、そーいう助けとか、一切期待しないでください。
・・・ていうか、なるべく、事前にMCのネタ繰りくらいして来てください。
喋りながら考えたりして、ズルズルいかないように。
MCも表現の一つであり、仕事です。
不安があるならば、ちゃんと練習してきましょう。
・・・そーいう事を、キッパリと言い渡す。
要するに、突然、MCで何かふられても無視する確率高いですよ、と。
たま〜に、気分が乗ったら、援護射撃する事もありますけど。
基本的には、こっちは一切関知しません、と。
相槌を入れるどころか、ジョークに笑ってやったりもしません、と。
そこら辺を踏まえて、是非、すべらないMCを心がけてください、と。
そのようにヴォーカリストやバンマスに言う。
・・・まあ、余計な事を言わなければ、滑る事はないし。
うまい事やれば、演奏や歌のプラス・アルファにもなるのがMCってヤツだ。
演奏、音楽と一緒で、まあ、つまりは「表現」だ。
お客さんにお見せすべき、表現の一つだ。
けしてテキトーにやって良い問題じゃない。
テキトーにやるならやるでいいけど、その問題に対して、僕は、何ら感知しませんよ、と。
「我関せず、俺知らんもんね」という態度を決め込む、と。
・・・もし、そーいうMCに対するリアクションとか欲しけりゃ、そーいうのが得意なベーシストを探せばいいでしょう、と。
そーいう雰囲気作りも大事だと考え、そーいう技術をも磨いている腕利きのサポート・ベーシストを探せばいいでしょう、と。
僕はベーシストなのであって、MCでも、コメンテーターでもない。
Mcという仕事に対して、助け舟なんて出さない。
というか、口下手な僕が助け舟を出そうとか余計な事をして、さらに余計にスベってしまうような事態は避けたいし。
だから、そう割り切っている。
少なくとも、そう一度キッパリと意志表示をした相手には、二度とは言わない。
たとえ、ステージ上で困っちゃっても、助け舟なんて出さない。
愛想笑い、茶々を入れる的な笑いも、入れない。まるで無視して、次の曲の譜面を見たり、瞑想したりしてる。
・・・まず、自己責任でどうぞ、と。
だいたい。
スベらないように喋る、というのを、簡単に考えてはいけない。
知り合いとか、常連さんとか中心のお客さんならば、多少の内輪ネタとか分かりづらいネタでも笑ってもらえるかも知れないけれども。
基本的には、そうじゃない。
初対面の人相手に、短い尺で、スベらないように喋る。
・・・それだけで高等技術だ。
ましてや、音楽や歌を聴きに来ているお客さんだ。
笑いに来てるお客さんじゃない。
つまり、積極的に笑おうとしに来ているお客さんばかりじゃない。
・・・ある意味で、お笑い芸人の舞台よりもキビシー状況だ。
そこでスベらないように喋るってだけでも高等技術なのに、さらに、ウケをとるなんて・・・・
こんな難しい事って、無い。
確実にスベらない、ウケのとれる話芸・・・・そんな事が出来たら、芸人をやれる。プロの。
別に、我々は芸人じゃない。
だから、「確実にウケをとる必要」はないけれども。
・・・ひとまず、スベッちゃダメだ。
スベったら、そのまま、演奏の評価もスベる。
こーみえてスベリの帝王、ドンビキの帝王として知られる僕ですら、MCってものについては、多少は研究した。
MCの上手いヴォーカリストの人とかのトークは、実に見事だ。
そつなく場をあたため、自分の歌の世界を作り出し、表現につなげている。
・・・後ろで聞いてて、そのそつのなさに、実に感心する。
MCとは、司会(master of ceremonie)だ。
曲の合間に、曲を紹介したり、ショーを彩るためにコメントを添えたり。
そーいうものだ。
別に漫談コーナーじゃない。
ウケをとる必要はない。
確実にウケをとれるなら別だが・・・まあ、基本的には、曲名とリスペクトをこめて作曲者をコールするもの、だろう。
ついでに、その曲にまつわる由来や、歌詞の大意やら、自分の思い出やら・・・そーいうのを長過ぎず、上手い事まとめて話す。
つまり話芸だ。
・・・これ、結構、真剣に考えると、難しいのだ。
僕は、とてもうまい事言えない。
そーとー気分が乗った時に、しかもスベらないであろう事を確信した時に、「・・・・・はい。オン・ザ・サニー・サイドストリートです。明るい表通りを歩こう。・・・・きっと、それまで日陰を歩いてきたんでしょうねぇw ・・・よっぽど紫外線とか気にする人で、ある日、ついに決心して、UVカットの日焼け止めクリームとかを買ってみたわけで。・・・・その時の感動を情熱的に綴った、そーいうスタンダードの名曲です。はいw」とかテキトーな事を言うのでイッパイイッパイだ。
小笑いくらいしかとれないネタだけども。
それでも、ギリギリすべらないですむ、ネタの一つだ。
短く切り上げる事。
特に、見た目が特にいいわけでもないミュージシャンのインストライブとかならば、なおさら。
Mcなんてオマケ程度におさえて、とっとと次の曲に行った方がいい。
女性ヴォーカリストならば、二〜三パターンくらいは「すべらないネタ」を用意しとく方がいいだろう。
アドリブですべらない話を確実に出来るようになれば、しめたもの。
・・・だけど、それは中々難しい技だと思うし。
一番、困るのが、ステージの上で見きり発射で喋りはじめて、収拾がつかなくなり、ダラダラとまとまりのないトークが続き、お客さんが呆れかえってしまう事。
そんな時に、目でSOS出されて振り返られても、困る。
そんなスクランブル事態を、どーにか収集するような見事なトークなど、出来るワケがない。
仕方無いので、「・・・・・そろそろ、次の曲、やりません?」とか言ってあげる事にする。
この強制終了のパターンは、なるべく使いたくないのだ。
なんか、いかにも「弾きたがりっぽい印象」を与えるので。
「MC不干渉の原則」は維持したいものだったりする。
繰り返しになるけど。
MCは、表現の一つ、ステージの演出の一つだ。
休憩時間とか終了後の、くだけた感じでお客さんと話す時のそれと同じノリであってはならない。
そのノリで、休憩時間のトークの延長の雰囲気でやってしまうと、一見さんのお客さんとか、ちょっとした疎外感を味わう。「不平等」が生じる。
あまり、そーいう事は避けた方が良い気がする。
ご贔屓のお客さんを中心に、それを特別扱いをするような・・・つまり彼らとの会話ややり取りをMCに組み込む系のやり方は、上手くやらねばそれ以外のお客さんを「・・・なんだよ。仲間うちで勝手にもりあがりやがってるだけか?」と白けさせる事にもつながるし、MCで話をふられた方にあまり気持ちの準備がなかった場合、困惑してしまう。
ミュージシャン仲間とかでも同様。
「へ?・・・今日は、純粋に、お客さんで来てるんだけどなぁ・・・(困)」という事になる。
突然、MCで自分の事を話題に出されても、それで喜べる稀有な自己顕示欲の強いタイプな人もいないではないけども。
普通は、そうじゃない。
人前で喋るとき、つまり「仕事で」人前で立つ時とそうでない時の区別は、明確に分けている。
同様に、飛び入りを強いるのも、僕は好かない。
僕自身がそのせいもあるけれども。
だから、知己の同業者のライブに足を運ばないのだ。
・・・飛び入りを奨められても、「いや、今日は客で来てますんでw」とやんわりと断る。
・・・それで終わってもらいたいもんだ。
それ以上、しつこく、「いや、出てくださいよw」とか無理強いされると、逆に、ドンビキする。
メンドーくせぇから、もう二度とその人のライブとか遊びに行くもんか、と思ったりする事すら、ある。
名前を売りたくて必死で「チャンスがあったらくいついてくる若手」とか、チャンスがあれば演奏したいような「演奏したがりのアマチュア」でもない限り、何の準備もない状態で突然ステージに呼ばれて、演奏させられて・・・・それで喜ぶミュージシャンはあまりいない。
最初っから飛び入りする気満々な場合もあるけど、そーいう時は声かけられたら、素直に応じる。
変に「・・・え〜w」とか勿体つけたりはしない。
あるいは、そーいうフリをしながらも、全然困ってないように見えない素振りで、ワザとやったりするけれども。
ただ。
少なくとも、本気で「え〜、ちょっと今日は・・・」と飛び入りを拒否している時とかに、しつこく誘われたりしたら、軽くムッとしますわな。
ヴォーカリストの世界とか、そこら辺の微妙な空気にキビシー。
はるか昔、キャリアの最初のころの話。
当時、六本木の真夜中の演奏とかをしてたけど、仕事を終えたヴォーカリストのお姉さま方が飲みに来るわけですよ。
で、色々と「あの人さ、アタシのお客とってったのよ?信じられる〜?」とか、一歩間違えたらお水の会話じゃないかと思うような濃い内容の話が目の前で展開されるわけですな。
その一つで、「ヴォーカルの飛び入りの作法」なんてものに話題がいった時があった。
いまはどうだか知らないけど、当時のヴォーカリストの世界では、「お友達のヴォーカリストのライブを応援しに(?)見に行く」というのが、ごくごく当たり前に行われていた。
そーいう事をお互いに頻繁に繰り返し、ヴォーカリストどうしの横のつながりを確保し、代打出演の機会とかトラの話とかにつなげるのは勿論、行った先の友人のお客さんとの面識も得て、自分のライブにも足を運んでもらう・・・・的な、そーいう事が普通に行われていた。
まあ、最低限の仁義ってヤツがあるので、あからさまに「自分のライブに来て下さいね☆」とかは言わない。そーいういぎたない真似はしない。そっと自分のライブ予定の紙とかを名刺代わりに渡したりする。
そーいう事を繰り返すことで、自分のライブにも足を運んでもらったり、新しい自分の客をゲットしたり・・・・そーいう事をするわけだ。
で、他のヴォーカリストのライブにこまめに足を運び、そのヴォーカリストとの親交がある事をアピールしたりして、そういう「横のつながり」を保持しておくことで、お客さんには「ああ、この人も、ジャズ・ヴォーカリストの世界で名の通っている(プロの)ヴォーカリストなんだな」という事を言外に悟らせるわけだ。
自分から「ヴォーカリストです」とか「プロです」とか「ライブとかやってます」とかアピールするのは、どちらかといえば「はしたない真似」とされる。そーいう事を言うと、足もとを見られる。ので、そーやって、自分がライブ活動をしているヴォーカリストである事をアピールするために、そーいう他のヴォーカリストのライブに足を運ぶ、とかをよくやるわけだ。
それが、ヴォーカリストの世界の流儀だった。
ヴォーカリストの世界は、人にもよるが、インストとは全然世界が違う。
人前で歌う時と、そうでない時のファッションとかメイクとかまで、違う。
ONとOFFの差が激しい。
六本木界隈で、そーいう「最初っから飛び込みする気満々」のヴォーカリスト達は、やはり(主役の顔をつぶさない程度に)めかしこんでくる。・・・・こっちの世界のドレスコード(服装規定)には、もう、我々外野はついていけない。
まだ右も左もわからない、夜の世界のルールなんて知らないお子様だった僕は、目を丸くして、そーいう世界の流儀を見聞きしたり、教わったりした。
同時に。
そーいうヴォーカリストの流儀は、インストの流儀とは別になってくる。
今はどーだか知らないけれども。
インストの場合、飛び入りの機会すらない。
よっぽどのVIPのミュージシャンが客で来てるんでもない限り、「飛び入りしないか?」的な声をかけたりはしない。
「オレは純粋にライブを楽しみに来てるのに、なんでイキナリ『仕事』しなきゃならないんだ?」という事になる。
ミュージシャンが、呼ばれて飛び入りを進められて喜ぶとは限らない。
むしろ、何の打ち合わせも無く、飛び入りをコールしたりしたら、それだけで「失礼!」にあたる場合もある。
さりげなく、セットの合間とかに、「・・・じゃあ、次のセットで声かけさせてもらいますんで・・・何曲kかやってもらえます?」とかコッソリとひと声かけておくのが筋ってもんで、そーいう順序を踏まえておけば、何の前触れもなくイキナリ飛び入りを強要して、呼ばれた方が戸惑って、「・・・・・え?・・・(困惑)」みたいな何とも微妙な空気が流れる事もないのだ。
他のヴォーカリストのライブに出席して、それとなくお客さんに自分をうりこみ、自分のライブに来てもらう、あるいは誰か他のミュージシャンや店に自分を紹介してもらう・・・・・・・的な営業の仕方は、インストのミュージシャンの世界では、ほとんどタブーだ。
そもそも「自分を売り込む」みたいな、ガツガツしたやり方は、それだけで白い目で見られる。
チャンスがあったら、そこでキッチリ自分のやるべき仕事をやる。こなす。
・・・それで気に入ってもらえたら、他の仕事にも呼んでもらえる。その仕事で共演した他のミュージシャンの他のライブにも声をかけて頂ける。
そーいう、ミュージシャンどうしの「口コミ」で仕事をつかんでいくしかないのだ。
Hpとか一生懸命作っちゃったり、チラシとか作っちゃったりとか、そーいう営業努力とかに精を出してしまうミュージシャンは、それだけで「音楽以外の事にうつつをぬかしてる」と見做され、白い目で見られたりとか、仕事に呼んでもらえなかったり、とかされる。
・・・今は、どうだか知らないけどw
僕が、徐々にプロ仕事から離れて、自分のライブ活動とかHP作ったりとかチラシ配ったりとかした頃。
何人かのベテラン・ミュージシャンの方から、忠告というか、そーいうものをされた。
「府川くん。・・・・そんな事をやってるヒマがあったら、もっと仕事(音楽)に取り組んだ方がいいよ」
自分で自分を売り込む・・・・というだけで、足元を見られる。
ミュージシャンは音で勝負。
どんなに「やる気があるんです!」とか「勉強してるんです!」とか「練習しまくってんです!」とか「夢があるんです!」とか「こーいう音楽が好きなんです!」とか・・・そーいう事を言った所で、全部無駄。
「あ〜そう。・・・どーでもいいよ。仕事さえ、キッチリしてくれればね。好きにやれば?」の世界だ。
「成功したいんです!」みたいな発言はご法度だった。
そりゃ、そうだ。
あの「プロの世界」でミュージシャンをやっている人々は、みんなプライドとポリシーを持って、あの夜の世界で音楽をやっているわけで。
そんな場で、「音楽の世界で成功したいんです!」的な空気の読めない発言したら、言外にその人達を「成功してない人々」「うだつのあがらない人々」と言っているのに等しい事になる。
・・・・まあ、それが、鼻っ柱の強かった当時の僕の本音だったわけだけどもw
こんな地味な、陽の目をみない世界でやってられっか!
いつか、もっと明るいオモテの世界を目指してやる。
・・・とか、そーいう生臭い野心を持ってたので、よく、そこら辺をつっこまれたりしてたもんだがw
「ミュージシャンは、売り込みはしない」
これが鉄則だった。
自分の演奏以外で、音以外で、人にアピールしない。
サウンドだけで全てを語るべし。
これがプロの流儀だった。
仕事が欲しけりゃ、良い仕事(演奏)をしろ。
なんぼ、一生懸命HPをやったり、チラシを作ったり、雑誌とかでPRしても・・・・ダメ。
「シャリコマに走ってる」の一言で、終わる。
あるいは「まるでヴォーカリストみたいだなw」とか「ロック小僧かよw」とか、小馬鹿にされる。
むしろ、そーいう事をしたら、「必死こいたら」、ミュージシャンの世界では足元を見られる。
・・・・て感じだった。
僕がむかし、プロ仕事ばっかりしてた時の状況は。
・・・・どうだろう?
今では、よく分からない。
あれから僕は、「純粋な」その道のプロ・ミュージシャンの人達からみれば、シャバくさい、アマチュアくさい方向にイッキに堕落して突き進んでいたようなもんだろうが。
・・・・・今でも、あの「流儀」というかオキテみたいなものは、あるのかな?
それとも、HPを持つくらいの事は、解禁になったのかな?
よく知らないけれども。
何にせよ。
まあ、やっぱ、あまりガツガツするのは良くない。
話がずれたな。
そう。
だから、MCとか、飛び入りとかについて、かなり慎重にやらなければならないのだ。
やるならやるで、スベらないように。
ちゃんと「下準備」はしておく事。
妙な間があいて、ドッチラケな感じになって、「・・・どーするよ、これ」的な雰囲気になる事だけは絶対に避けなきゃならない。
演出的に。もしライブを成功させたいならば。なんだかんだいって、ライブは、ショービジネス、エンターテイメントなのだから。
・・・・完全に音楽勝負! の、余計なMCを全く入れない、ストロングなスタイルでやるなら、それはそれでアリだけど。
と、いう事で。
調子が悪かったんだか何だかわからないけれども。
この日のライブでは、ちょっとMCが不調。大すべりは無かったけれども、軽いプチすべりや空周りが、いくつか見られた。なんかデュオでやってた時に、たま〜に見られた、あの状況だった。
勿論、僕は、全く「助け船」など出さない。
なんか軽く困ってるっぽい感じは見受けられたし、幾度か相槌を求めるような風に感じられもしたけど・・・・軽くスルー。
次の曲をいかに演奏すべきか、あるいはアンプのセッティングをどのようにするか、とかそー言う事を考えていた。
MCはバンマスの仕事なので、そこは、ちゃんと頑張ってください。僕は関知しません。
親切なドラムの島野君は、いちいち「危機」をフォローすべく助け舟というか、「笑い」を入れてあげたりしてたけど・・・・・・・・さすがに、ステージ上で、「いいよ、島野君。助けなくて。・・・困らせとこうw どーなっちゃうか見物しようw」とか言っちゃうような、そー言う「意地悪」こそしなかったけどw
「・・・・今日、ちょっとMC長いかな?」と、訊かれたので。
「長いですね。・・・ハッキリ言って、余計な情報(喋り)が多すぎます。」と、バッサリw
演奏7分くらいに対して、MC4分弱は、長い。
だったら各セット、もう一曲ずつ追加した方が良いくらいだと思うし。
とりあえず、僕がお客さんなら、そう思う。
キレイな美人さんで、しかも喋りが上手いとかで、喋ってるだけでも絵になるような、そーいう事なら、そんくらいの喋りがあってもいいとは思うし、間も持つと思うけど。
基本的に、野郎三人で音楽で勝負する以外に手のないバンドなワケで。
芸人に弟子入りとかでもして、確実な笑いをとる方法でも教わってくるんじゃない限り、MCなんて極力控えた方が無難っちゃ無難だと思う。
せめて、相当下準備をしてくるとか、日頃からMCのイメージ・トレーニングを重ねるとか。
そーいう事もせずに、下手に頑張れば頑張るほど、プチすべり、空周りはさけられない。
秋に、(おそらくは)完全にアウェイな状況で長丁場ライブをする事になるのだから。
それも想定していかないと。
と思う。
勿論、漫才とかそれ的な掛け合いとか相槌は入れる気とか一切ないので。
・・・まあ、せめて「苦笑い」くらいの助け舟は出してもいいけど。
少なくともMCで困った時に、「フォローを入れてあげない、助け舟を出してあげない、僕の方が悪い」的な空気だけは勘弁してもらいたいなぁ、と思う。それを、僕のせいにするつもりはないだろうけども・・・・・MCで手詰まりになって困った時に、チラチラとこっちを見られても、困る。
そーいう時。
あえてスルーして、とぼけて、譜面とか入念にチェックしちゃうもんね。
「インタープレイ」は音楽だけで十分なのだ。
MCは仕事なので、是非、ソロでどーにかしてもらいたいと思う。
けして、僕が不親切なわけでも、助けあい精神に欠けてるわけでもない。
・・・けど、何となく、仏頂面で無関心を決め込んでいる、全然フォローを入れようとしない僕の方がいけないみたいな、まるで僕が悪いみたいな、そういう空気をうっすらと感じたんで。
ぷち不機嫌になるw 少なくとも、セッションタイムに入る前の、2セット目までのライブタイムの間は。
この、微妙な薄く険悪なムード、がライブにもたらす悪影響というものは、よく知っている。
軽く、その空気を読み取って、お客さんがドン引きしてるのも知っている。
分かっているけど、どーしようもない。僕には手の打ちようがない。
だから嫌なのだ。 ライブなんて楽しくやらんと。
ぜひとも、MCはソロで(単独で)成立するように、頑張ってもらいたいと思う今日この頃。
それがあって、はじめて、邪魔にならない程度にオブリガードやコンピングも入れられのだから。
という、「僕の都合」により。
この日、僕はかなり付き合いが悪かった。
C ミュージシャンの都合を排除してみる
さて。
この日、ドラムの島野君との談笑(ダベり)の中で。
「音楽にミュージシャンの都合をなるべく交えないでアプローチしてみる」という話題が上がった。
今回の一連の「考察」における、キーワードの一つでもあるのだが。
「どこに定点をおくか」、だ。
「定点」、もしくは基準点。
ここを鮮明にしない事にゃ、物事がハッキリしない。
およそミュージシャンをやってる人間で、「良い音楽をやろう」と思った事の無い人間などいない。
たとえ、商売で音楽をやるようになった人間ですら、その最初のきっかけは「音楽をしたい」という原初の動機があり、その動機の根源は「良い音楽」への憧憬がある。
プロフェッショナリズム、アーティシズム、アマチュアイズム、エンターテイメント精神。
この四つのベクトルで、一番最初に来るのが、アマチュアイズムだと思う。
アマチュアイズムこそ、音楽の根幹であり、重要な純粋な第一元素だと思う。
これらを定点という視点で言いかえるならば。
アマチュアイズムとプロフェッショナリズムは、要するに「(自分が)演奏する事」という事に対する軸だ。
どこまでも自分のために演奏するのがアマチュア、人のために演奏する事も自分のためと心得て演奏出来るのがプロフェッショナルだ。
一方、アーティシズムとかエンターテイメント精神とかは、「作品」に対する軸だ。
どこまでも自分の作りたいと思う作品を作るというのがアーティストであり、人の求める作品も作りたいと思えるのがエンターテイナーだ。
いいかえるならば。
アマチュアとは自分やバンドという主体を定点として、演奏する人。
プロとは客やクライアントという客体を定点として、演奏する人。
アーティストとは自分やバンドという主体を定点にして作品を創造する人。
エンターテイナーとは客やクライアントという客体を定点にして作品を創造する人。
と言える。
・・・・まず、ミュージシャンという時点で、誰でも良い音楽を求めているのだ。
問題は、その良い音楽というのが、誰にとっての、どのようなものか、だ。
言うまでも無く、「アマチュア・アーティスト」が人に受け入れられる可能性は、限りなく低い。
だって、自分のための音楽を自分のために演奏するわけで。
そんなサービス精神に乏しいものを好む人なんて、ごくごく稀だろう。よっぽどの変わり者しかいない。
逆に「プロフェッショナル・エンターテイナー」の作品は、多くの人に受けるだろう。
人のために、人が喜ぶような音楽を演奏するわけで。
サービス精神の固まり、と言っていい。それを嫌がる人は、アマチュア的なもの、アーティスト的なものを好む、偏屈・・・もとい、マニアックな、すこしややこしい感性の持ち主だと言える。
・・・ややこしい事にモダン・ジャズという音楽は、思いっきり「アマチュア・アーティスト」の属性の強い音楽だったりするのだ。
モダン・ジャズ、ビバップの成立の時点で。
「スイング・ジャズ」という音楽が存在していた。
グレンミラー、ベニー・グッドマン、カウントベイシー、トミー・ドーシー、デューク・エリントン・・・様々なプロフェッショナル・エンターテイナーの楽団が乱立し、彼らの演奏した音楽のリズムから「スイング」とカテゴライズされた、あの音楽だ。
それらはラジオを通して、アメリカの一般大衆の耳に届いた。
ウキウキするような、誰でも分かる面白さを持っていた。
それでいて、高度な演奏技術と個々の奏者の高い演奏技術や豊かな音色が求められる音楽だった。
これらの楽団は、ダンス・ホールの伴奏に、歌の伴奏に、映画のサントラに・・・・八面六臂の大活躍を見せた。
これらの一流バンドのプレイヤーは、つまり、プロフェッショナル達だった。
バンマスやアレンジャーのいかなる要求にも応えるだけの、広範な技術を持った、譜面を与えられたり要求されたりすれば何でも出来る、そんなプロフェッショナルなプレイヤー達だった。
有名バンドのプレイヤーは、それらのプロフェッショナルの中からの選りすぐり、ヘッド・ハンティングに次ぐヘッド・ハンティングの果てに集められた、エンタメ界のトップを張るスター・プレイヤー達だった。
この、問答無用の「プロフェッショナル・エンターテイメント」な音楽、スイング・ジャズへのアンチテーゼとして生まれたのが、つまり、ビバップであり、モダン・ジャズだ。
ビバップを想像したディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーやバド・パウエルは、彼ら自身は、「プロフェッショナルな」ミュージシャンだった。
それぞれ、様々なプロのビックバンドを渡り歩いたり、「(プレイヤー的に言えば)プロフェッショナルな音楽の代表格」であるクラシックを学んでいたり・・・そーいう人達だった。
つまり、基礎能力、バランスのとれた技術や音色を持っていた、それが必要な演奏をやれる人達だった。
その彼らが提示したもの、それは、あえて「プロフェッショナルな方向」や「エンターテイメントの方向」に反する、「アマチュア・アーティスト」の方向だった。
プロフェッショナルとして、客やクライアントを満足させるための、それだけの力量や普遍的な技術を持ち合わせる事や、エンターテイナーとして客やクライアントのために作品を創造する事に、完全に背を向けた方向だった。
言わば、あえてウケない、喜ばれない、自己満足の方向に、考えたワケだ。
・・・それもそのはず。
もともと、ビバップは、毎日毎日ウンザリするくらい仕事をやらされたプロフェッショナルなミュージシャン達の憂さ晴らし、つまりジャムセッションから生まれた「実験的な音楽」だ。
「・・・・ていうかさ。客にウケる事とか考えね〜で良いっつうなら、こーいう事も出来るんじゃね?W」
その発想で、どんどんあの手この手でアイデアが膨らみ・・・そーして出来あがった、いわば「音楽の新体系」だ。
勿論、スイング全盛の当時、そんなものは「ただの趣味・娯楽」的な音楽でしかなかった。
とても商業ベースの、売り物になるようなシロモノではなかった。
そもそも、本人達が、そんな事一つも考えちゃいない。
仕事でやる音楽に疲れ果てたから、音楽を嫌いにならないために、バランスをとるために、自己満足の自慰的な自分達だけの音楽をやっていた。
憂さ晴らし。
どこまでも、アマチュア的なアングラ主義の発想から生まれてきている。
ところが。
スイング・ジャズは、「プロフェッショナル・エンターテイメント音楽」として洗練され過ぎてしまって何も面白みのない、音楽という扱いを受けるようになった。つまり音楽として、完全に「停滞」してしまった。
客は、スイング以外のリズムの音楽、つまり、色々なラテンリズムとか、逆にストリングスとか、「スイング」や「ジャズ」以外の音楽を求めはじめた。で、「スイング・ジャズ」はレコード会社や興行師的には、「売れない商品」になり始めた。ビックバンドの解散とかも相次ぎ始めた。
・・・その時、目をつけられたのが、「アマチュア・アーティシズム音楽」であるビバップだ。
一部の、仕事でやる音楽に我慢できなくなっちゃった黒人ミュージシャン達が、場末のジャズクラブで夜な夜なシコシコと繰り広げて、勝手に作法というかルールや美的基準まで作っちゃって、何やら一生懸命やってる、あの「閉鎖的でマニアックな」音楽に目をつけた。
あのサービス精神に乏しい、自己満足の自己陶酔的音楽が、幸か不幸か、レコード会社や興行師達やラジオのプロデューサー達の目についたわけだ。
「・・・・よし。これを売り出してみようじゃないか」
・・・こーして大々的に陽の目を浴びたのがビバップであり、モダンジャズだった。
一部の「見る目がある」、センスのある音楽評論家や愛好家が、あやしげな未開の部族に他ならなかった彼らバップ・ミュージシャンを「発見・発掘」し、「彼らの音楽を聴いたり、それを理解する事がカッコいい!」みたいな、そーいう捏造的な宣伝工作を行った。
・・・もちろん、売り出す側もバカじゃない。
売り出したのは、ちゃんとプロフェッショナルとしての能力を持った、代表格のミュージシャンだけだった。後の有象無象は、あまり、真面目にプロモートしてない。
つまり、斬新な音楽としてビバップを売り出そうとしつつ、その実、やっぱり売り出すのは、それなりの力量を持ち、その世界での実績のあったミュージシャン達だったわけだ。・・・・このように、しっかり最低限の水準は維持してるあたりが・・・・巧いというか、セコいというかw
あくまで、圧倒的な、プロフェッショナル・エンターテイナーとしての力量を持っていたミュージシャンの「音ヂカラ」が基本だった。彼らの技術や音色が「主要成分」だった。つまり「定点」だった。
それで、しっかりと防御線というかセーフティ・ネットを張っておいてから、それでビバップなんていう、普通に考えたら売れるハズもない音楽を売り出した。大々的に。
なんだかわからないけど。
音楽的には意味不明でも、何か、ものすごくハイレベルである事くらいは、分かる。
普通に聞いたら、聴き辛い、どこがメロディでどこが間奏(ソロ)だかハッキリしない、ゴチャゴチャした音楽なのに・・・・何故か、かっこよく聞こえなくもない。
そこに、売り出す側が、あの手この手の売り口上を囁く。
「・・・・それは、ビバップだからです!w」
「全く、新しい、新時代の音楽だからです」
「だから、ハイレベル! だから、カッコいい! これが分かるとは、お客さん達は、とても聴く耳が肥えてらっしゃるw そうです。これが、今までの時代にはない新感覚の音楽なんです。 今までの音楽に飽きてしまった皆様のニーズに応える、新しいサウンドなんです!」
「誰にでも分かる、ポップス的なスイング・ジャズなんて・・・もう古い古い!w これからの時代の先を読める、先見の明のある音楽リスナーの皆さんは、もっとハイレベルな、このような音楽を鑑賞されるべきなんです!」
何か、「分からない方が悪い」「センスが無い」「時代おくれ」みたいな、そんくらいの逆差別を被るような、そんくらいのブームが捏造される。
それにいち早く食らいついたのが、フランスとかパリだ。
あの、普通に考えたら何が良いのかよく分からない系のものを勝手にアートだと認定して、「理解」し、賞賛する、あの国の文化人や知識人に、何だか過大に評価される始末。
・・・おかげで、普通に考えたら、全然ワケの分からない、何が良いんだか分かるハズのない、この「自己満足な憂さ晴らしの音楽」は、「何やら複雑な音楽哲学の基に構築された、現代クラシック音楽とタメを張る高尚なモダン・アートである」みたいに喧伝される。
「勘違い」される。
「衒学的な魅力・付加価値」を持ったワケだ。
で、逆輸入されて・・・・アメリカで大フィーバー。
49年に呼ばれてパリに演奏しに行ったマイルス・デイビスが、愚痴る。
「俺達は、パリでは、そりゃ盛大にウケまくったんだ。フランス(パリ)の人々は、俺らのやっている事をマトモに評価してくれたんだ。・・・ところがアメリカの連中は正統に評価しない。アメリカに帰ったら、仕事がなかった。俺達は国際的スターで、同時に無職ってワケだ。クソ!」
・・・・う〜むw
マイルス視点では、そうだろうけどもw
普通に、冷静に考えりゃ・・・むしろフランスの人々が「勘違い」してただけ、とも言えるんだけどw
マイルスは、そのショックで、数年にわたるヤク中生活に入り、ドロップアウトしちゃうわけだけども。
彼がクスリ漬けになっている間に、モダン・ジャズをとりまく状況は徐々に変わっていく。
フランスの先進的な文化をもった人々が認めるくらいだから・・・きっと、バップという音楽、モダン・ジャズという音楽は、何か本当に新しい文化、重要な音楽なんだろう。・・・そうに違いない。
そーいう背景があって。
スイング・ジャズの時代がコケて、ジャズシーンがいっぺんガタガタになって、多くの「プロフェッショナルなミュージシャン」が仕事を求めて西海岸のハリウッドに移って・・・・・そーいう状況の中で。
売れたい(仕事が欲しい)バップ・ミュージシャンと、売りたいレコード会社の、利害が一致して。
そこで生まれたのが、つまり、ハードバップ。・・・モダンジャズだ。
スイング・ジャズのリズムに、ビバップのイディオムに・・・・分かりやすいテーマ・メロディ、あるいはスタンダード・ナンバーを足してみた。
・・・これが、バカうけ。
アマチュア的でもあり、プロフェッショナル的でもあり、アーティスト的でもあり、エンターテイメント的でもある、節操のない、「オール・イン・ワンな音楽」が生まれたわけだ。
この「50年代のモダンジャズの黄金時代」の背景は、そーいうものだった。
言いかえれば。
アマチュアイズムやアーティシズムを内包しつつも、プロフェッショナリズムやエンターテイメントに傾いた時に、はじめてブレイクした音楽。
それが、モダン・ジャズだ。
・・・アレに近い。
今年公開された、某ロボットアニメの売れ方に近い。
簡単に、感覚的に楽しめるだけの分かりやすさやクオリティを維持しつつ、いくらでも深読み出来る意味不明さ、分かりにくさも混じっている。
それが、モダンジャズの魅力の元だ、と。
・・・さて。
時代は下って、現代。
もう、モダンジャズは、というか現代ジャズまで含めて、ジャズなんて音楽は、様式としての需要は残念ながら果てしなく低い音楽になってしまっている。
というか、何をもって、ジャズとするか、その定義すら曖昧になってきている。
先日、インドのポップス音楽について語った。
http://bassfukawa.blog15.fc2.com/blog-entry-325.html
http://www.youtube.com/watch?v=LnzGtX_rFSQ
・・・現代の、ボリウッドの作品は、「洗練」され過ぎて、もうそれがインドの作品なのかどうだかすらアヤフヤになってきてしまっている。
面白みがない。
言ってしまえば、インド映画的な要素が、果てしなく削ぎ落とされてしまっている。
プロフェッショナルなエンターテイメントの方向性にどんどん突き進んでいった結果、行き詰り、停滞し、ヨソのものと変わり映えのないシロモノになり果ててしまっている。
勿論、細かい所まで見て行けば、色々とあるのだろうけども。
パッと見た感じ、痛くない代わりに・・・・そう、面白みがない。
悪くも無いけど、良くも無いものになってしまっている。
そう。
洗練は、没個性。いい事ばかりじゃない。
・・・・・・・・・・・だが。
あえて言う!
80年代の、テクノ時代に育ち、新しいもの、洗練されたものが絶対に良いという価値観の中で育ってきた僕の、正直かつ素直なセンスで言えば。
「洗練は素晴らしい!」だ。
伝統的な木造建築の古い味わいを楽しむよりも、「・・・エアコンついてた方が過ごしやすいっしょ?」という身もフタも無い発想の方を求めるフシがある。
なんだかんだ言って、便利な方がいい。
文明ブラボー。
伝統よりも革新、過去よりも未来、既成概念よりも新コンセプト。
それが典型的な「都会っ子」の僕の正直な意見だ。
「面白さ」は、まず、「洗練」があってこそ。
洗練が確立された中で、コントロールされた野趣が混じる。
・・・そのくらいでいい。
自然なんて、テレビカメラの向こうだけでいい。
もしくは安心出来る虫の入らない睡眠場所とトイレ・風呂が確保された状態で、楽しめる程度でいい。
緑が欲しけりゃ植えりゃいいのだ。
コントロール出来ない自然など、いらない。
氾濫する河川も、有害な虫や猛獣がいる野生の森も、容赦なく砂嵐の吹きつける砂漠も、防寒具なしでは一瞬にして凍るような凍土も・・・・・要らない。
というか、命を落とすリスクを支払ってまで見たいようなものではない。
そりゃ、機会があったら見れるに越した事はないだろうけども。
それなりの防御策というか、安全確保がなされてでなければ、わざわざ見に行きたいほどのものでもない。
残念ながら、もはや人は、「洗練された文明の利器」なしじゃ、生きていけないのだ。
それくらい脆弱だし、「洗練されてないもの」を無理せず楽しめるほどタフじゃない。
・・・まず、そこを、ありのまま受け入れた方がいい。
人間は、生来、洗練されてないものを拒むように出来ているのだ。
我々先進諸国の人間が「未開の地」「洗練されてない土地」と見なしがちな第三世界の諸国や土地の人々の文化にも、それなりに、我々には及びもつかない「洗練」が含まれている。
ちゃんと獣道や獲物の足跡も読めず、毒ヘビのすぐ近くをウッカリ無警戒にあるいちゃったり、食べられる植物とそうでない植物の見わけもつかず、部族の風習(マナー)に全く敬意を持てないような無教養な人々は、彼らの常識からすれば、全く「洗練」されてないのだ。
現代日本人が日本人でない人々、いわゆる未開の土地の人々のフリをしたところで痛いだけだ。
関東の人間が無理に関西弁を使って、しかも使いこなせてると自分で勘違いするくらい、痛い。みっともない。恥ずかしい。
かぶれる必要は全くない。
かぶれる必要、染まる必要は全くないけれども、それはそれとして、必要に応じて異文化の常識や教養を学び、洗練の形を知る必要は、ある。
我々は、毎日風呂に入らないとかゆくなるし、消毒された水でなければ腹をこわすし、舗装された道以外を歩き続けたら足腰を痛めるし、テレビやネットや携帯がなければ不安と孤独で衰弱してしまう。
そんな、もはや自然の中で暮らすことなど出来やしない、洗練された文化・文明に馴染みきった存在である事を、まずは受け入れ、深く自覚していった方がいい。
洗練とは、すなわち、没個性だ。
「あるがまま」の天然の形を、人工的に加工し、使いやすく便利なように、みんなが納得する形に変形させていく作業に他ならない。
・・・・余計な感傷など、取っ払っちまった方がいい。
自分らしさ、個性、主観、主張・・・・そんなものは、二の次三の次なのだ。
・・・注意すべきは、そーいうのを無くすべきだ、と言っているのではない事。
二の次、三の次におくべきだ、と言っている。
第一に考えるべきは、やはり、洗練だ。
それが、人間の正直な、素直な考え方であり在り方だと思う。
別に、洗練されてないもの、自分のセンスにおいて洗練とは程遠いしろものを批判し、非難し、拒絶すべきだ、と言っているのではない。
自分自身の事について、素直に洗練の方向で考えるべきだ、と言っているのだ。
人は人。自分は自分。
人がどう思おうと、自分の本音に正直に生きるべきだ。
ミュージシャン的に考えりゃ、自分のやりたい事を正直にやるべきだ、と言っている。
もっと言えば、自分がどう思おうとも、思いたくとも、「自分のやりたい事」を正直にやるべきだ、目指すべきだ、と言っている。
ミュージシャンである時点で、全てのミュージシャンは良い音楽をやりたいと思っている。
全てのミュージシャンの、その根源には、「アマチュアイズム」があるわけだ。
その事を、まず、素直に認めてしまうべきだ。
アマチュアイズム、アマチュア的な考え方、ベクトルを持ち続ける事は、どちらかといえば、良くない事、非洗練的な事と、見做されがちだったりする。
違う。
「自分のために音楽をやる」という事が、それを全うする事が、洗練させる事が、どんだけ難しいか、という話だ。
それが出来る人は、稀有だと思う。
みんな、それが出来ない。
ついつい、中途半端にプロフェッショナル的なベクトルに考えたくなってしまう。
お客やクライアントに迎合する。
もし、真にアマチュアイズムを貫くならば、何者にも迎合してはならないのだ。
「自分のやりたい事をやる」という事を、どこまでも貫かなければならない。
という事は、人に良いと思われたいとか、うけたいとか、儲けたいとか、そーいう邪念でブレーキをかけるような真似は一切してはならない、のだ。
一点突破。
純粋に、混じり気無しの、自分のためだけに音楽をやる事を、その路線の上で洗練していかねばならない。
自分の音楽道を、貫かなければならない。
「自分がやりたいから音楽をやる。」・・・それ以外の夢だの希望だの大義名分だの、いっさい放棄しなけりゃならない。わりきらなければならない。感傷など捨て去らなければならない。
・・・けっして簡単な話じゃないのだ。
電気もガスも水道も無い、自然の土地で、独りで生きる。・・・それに近いシビアさがある。
それが出来ないのだったら。
素直に、都会の暮らしに、資本主義の文明社会に、どこまでも順応するしかない。
ストレスだ何だとぼやいているヒマはないのだ。
いや、ストレスはあるに決まっている。
自然とはかけ離れた、人工的な世界で生きてくわけだから。
むしろ、当然の事だ。
・・・その当然の事に、文句をつけてるヒマはない、という事だ。
「都会の暮らしは嫌だ。」
「じゃあ、山の中で暮らせば?自給自足で」
という話だ。
それが嫌ならば、大人しく都会の中で暮らしていくしかない。
服装、言葉、立ちふるまい、マナー・・・・・色々なルールでがんじがらめのこの社会で生きていくしか道はない。
そこに、「おかしいよ。生きるって、もっと楽しい事だろ?なんで、そんな思いをしなきゃならないんだ」とかケチをつける方が、おかしい。
文句を言うなら、山の中でも入って、資本主義経済や文明社会の歴史の恩恵から一切縁を切って生きてけばよい。
「自分の都合」で文句をつけようとするから、おかしい事になる。
「自分の都合」は、どこまでいっても「自分の都合」なのだ。
都会的洗練、文明的洗練とは、絶対に相容れない。
都会的洗練、文明的洗練とは、そーいう「自分の都合」や「個性」や「あるがままの形」をどんどん排除する方向で成り立っている。
野趣、という考え方もある。
だが、それは、まず第一に洗練ありき、だ。
洗練された中に、ほんの少し洗練されてないものをコントロールして織り交ぜるからこそ、一種の面白さや味が生まれる。
野趣が野趣として成立するためには、まずは、周囲をガッチリとした洗練で固める他ない。
でなければ、それは野趣として成立せず、ただの非洗練として、滑稽なものとして映る。
さて。
ここで、再び、モダンジャズという音楽について、考えてみる。
先述のとおり、モダンジャズは、もともと、「アマチュア・アーティストの音楽」だった。
主導したのは、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーといった、まぎれもないプロフェッショナルな技術と力量をもったミュージシャン達だったけれども、彼らの中の、アマチュアイズムが形を為し、作りだされたものこそ、ビバップであり、モダンジャズだった。
だが、その時点では、ただの、未開な洗練されてない、ただのアングラな趣味の音楽だった。
商業ベースに乗る事も、売り出される事も、指示される事もない、ただのムキだしな、天然の、非洗練な音楽でしかなかった。
それが、紆余曲折の果てに、ハードバップという形になり、人々が聴きやすい形に「洗練」されていって、ようやく大衆の支持を得られた。
洗練と野趣の関係が絶妙に成り立っていた、それを武器として発達した音楽だった。
ジャズは、モダン以降のジャズは、つまり、基本的に、「野趣(面白み)の微妙に混じった洗練的音楽」なのだ。
プロフェッショナリズムの中に、微妙にアマチュアイズムの混じっている音楽。
エンターテイメントの中に、微妙にアーティスティシズムの混じっている音楽。
・・・この野趣というものの分量・用法で、昔っからモダン・ジャズというものはややこしい事になってきた。
野趣、ある意味での非洗練が混じって無ければジャズではない。
それは一面の真理だ。
だが、それが、在り方を曇らす。
洗練されてない事、未熟な事に、正当性とか信憑性を付与してきた。
「都合の良い解釈」や「勘違い」の余地を生んできた。
いわく、「○○だってこうしてる」、「○○の音色は良くない。だが、それがいい」とか、そーいうアレコレ。
ダメな部分があるからこそジャズは良い、みたいな誤解を生んできた。
違う。
ダメなもんは、どこまで言ってもダメなのだ。
いくら、モダン・ジャズが「もともとアマチュア・アーティストの音楽だった」とかいっても、ダメだ。
そのままでは、ただの自己満足の自慰行為で終わってた事は言うまでも無い。
そんな、サービス精神の少ないものを、人は喜んで受け入れたりはしない。
「別に、人に理解されなくていい、全く支持されなくていい、拍手一つもらわなくてもオレはオレの音楽を貫くんだ!」
という、筋金入りのアマチュア主義とアーティスト主義で音楽をやれる人ならば、話は別だけど。
普通、そうじゃない。
みんな、やはり、どこかでプロフェッショナルな方向、エンターテイメントな方向を求めている。
「良い音楽」を求めている。
そして、その「良い音楽」とは、一種の方向に洗練されたものだ。洗練されているから、良い音楽なのだ。
さらに。
出来れば、その良い音楽を、人に共感され、喜んでもらえるものであってほしいと願っている。
音楽を通して、自分を認めてもらいたい、音楽を通じて人とコミュニケーションをとりたいと、思っている。
そう思わないで純粋に音楽をやれる人がいるというなら、ぜひ見てみたいものだ。
僕は、残念ながら、お目にかかった事はない。
いわゆるアマチュア・ミュージシャンという人々がいる。
僕は、先に書いたとおり、「アマチュア性」を批判した事など、一度もない。
というか、むしろ、音楽とは、第一義的にはアマチュア性が介在すべきものだとすら思っている。
つまり、自分のためにやるべきものだ、と思っている。
問題は、アマチュア・ミュージシャンの人が、アマチュアである事ではない。
「アマチュアでありながら、あるがままで、人の評価や支持を、ともすれば代価を得ようとする」その事について、批判的なのだ。
音楽なんて好きにやればいい。
ただ、好きな事をやる事について、別に人から文句を言われる事ではないけれども、人から褒めてもらえるものでもない事は深く理解しなきゃならない、という事だ。
そして、時として、「音楽は洗練されてしかるべきものだ」と考える種類の人々から批判の対象となる覚悟は持っておく方がいい、という事を言っているのだ。
「アマチュアだったら何をしてもいい」
「アマチュアだったら何をしても許される」
というのは、完全に誤解だ。逆だ。
トーゼン、セッションについてもそう。
「アマチュアだから、客だから、好きな事が出来る」という意見は、完全な誤解というか、都合の良い拡大解釈というものであって。
もし、それなりのトレーニングを重ねていない、ただのアマチュア・ミュージシャンが、本当に好きな事をやりたいのであれば、音楽でストレス発散をしたいのであれば、自分でしかるべきギャランティ払ってメンバーを集めて、身銭をきって場所を用意して、それで存分に「練習なりリハーサルなり」をすべきなのだ。
勿論、人前で聴かすものでもない。むしろ足を運んで聴いて頂くための、しかるべき迷惑料なり慰謝料なりをお支払いした上で「聴いて頂く」べきだろう。
・・・・まあ、ギリギリ、自分の知り合いを集めるくらいの事までは許されるだろう。「発表会」という事で。自分でハコ代を支払って、スペースを用意とかするならば。
だが、もし、そうではなく、普通にライブハウスとかでチャージをとって、人様からお金を頂いて演奏する、という事であれば。
ただのアマチュアでは、それは、許されない。
ちゃんと、それに見合うだけのものを提供出来る、それなりの力量や技術や修練がいる。
金の発生する場所で演奏するからには、必ずプロフェッショナリズムが求められるのだ。
だから、セッションというものを軽く見てはならないのだ。
セッションだろうが何だろうが、金の発生する場所で演奏する以上、ある程度のプロフェッショナリズムが求められるのだ。
「金を払って参加するのだから、何をしてもいい」
というのも勘違い。
「金を払うだけ」ならば、大人しく客席に座って見ていて下さい、という話なのだ。チャージは、チャージ(席料)で、終わり。
別に、「人前で好きな事をしても許される」サービスの料金じゃない。
そんな都合のいい、安い話なんて、ない。
セッションは、「ジャズを愛好し、勉強している人達が、互いに協力しあって切磋琢磨していくための場」に他ならない。
あくまで、各自が取り組んでいる事が、他のプレイヤーのそれのプラスになる事が前提で成立している。
他のプレイヤーが腕を磨くために協力をし、自身も腕を磨いたり、上を目指すために真摯に取り組むからこそ、人前で演奏する事が許されるのだ。
だから、チャージ以上の金額が免除されるのだ。
お互い様、という事で。
たま〜に、そこの所をはきちがえた参加者が、あまりにも傍若無人な振る舞いをする事がある。
そーいう時に、ホストがおさめる。
僕のように、ゴチャゴチャと理屈を述べて、比較的温和に問題を解決する人もいれば、問答無用に怒鳴りつけて追い出す人もいるだろうし、演奏で「己の思い違い」を痛感させて黙らせる、というやり方もあるだろうけども。
つまり。
人前で演奏する、という事を、簡単に考えちゃいけない、という事だ。
ジャイアン・コンサートじゃないけれども。
洗練されてない「不快な音楽」を聴かされる方は、たまったもんじゃない。
ジャイアンの歌を、「あれはあれで、個性的で、面白みがあっていいねw」と思えるマニアックな一部の人々はともかく。
多くの人々は、そうじゃない。
洗練を望んでいるのだ。
その洗練の中に、微妙に野趣がまじる事を望んでいるのだ。
「あるがままを認めて!」「僕の個性を評価してよ!」・・・なんて子供じみた理屈が通用する世界じゃないのだ。
アマチュア・バンドにだって、それなりのルールというか、暗黙の了解コードがある。
というか、むしろ、アマチュア的である分、そのルールは、厳しい。
プロのバンドならば、仕事のために、とわりきって、ソリの合わないミュージシャンやバンドでも、平気でやる。やれなきゃならない。
だが、アマチュア・バンドは、そうじゃない。
自分のための音楽をやるのだから、自分のための音楽を著しく阻害するようなメンバーは絶対に入れない。
自分のためにならない、つまり、組んでも面白くない、何のメリットもない人とは、組まない。バンドをやらない。
プロは、そこら辺、ある意味でルーズだ。
金になるならば、あるいは自分の音楽にプラスになると判断すれば、結構誰とでもやれる。
というか、誰とでもやれないくらいじゃ自分のプロフェッショナリズムが危うくなる。
客やクライアントのために演奏する事が出来る、というのがプロフェッショナリズムってヤツだからだ。
出来ないと言えない。やれないと言えない。
言わない、言えない。
プロは、やる音楽のルールを選ばない。
ただし。
最低限の職業責任はある。
どうやっても、客やクライアントを満足させられないと判断すれば、断る。
出来ない事を引き受けるような、そんな無責任な事は、しない。
客やクライアントを喜ばせ、満足させるように、べストを尽くすのがプロだ。
そこに、自分の都合など、加えちゃならない。
音楽をやるのは当たり前。プロならば。
そこに自分の都合、あるいは条件を、付け加えちゃいけない。
「これじゃ出来ない」「これじゃやれない」を言った瞬間、プロ性は失われる。
自分の都合で、ものを言っちゃいけないのだ。
後は、アーティストであるか、エンターテイナーであるか、の問題だ。
自分のための作品を作るか、人のための作品を作るか。
自分で納得するために音楽をやるか、人が納得するために音楽をやるか。
・・・まあ、プロフェッショナルな(それだけの力量・技術・知識)を持ったプレイヤーであれば、どっちに転んでも、ある程度は自由だけども。
何をやっても、最低限のプロフェッショナル性を保てる限り、人前で演奏する資格は有する。
が、それが無い限り、どっちをやるにしても、どーにもならない。
つまり、アマチュア的なままでアーティストの方向に進んだら誰にも評価されなくなるし、エンターテイメントの方向に進んだら痛く寒い状況になる。
僕が、自分でバンドを率いて音楽活動をしていた頃の話。
僕の音楽は、多分にアマチュアイズムを混ぜたものだった。
人前で演奏するにしちゃ、かなりヤバいくらい、極端なまでの野趣を織り交ぜたものだった。
僕の中では野趣のつもりだったけれども、まあ、客観的に見れば、野趣を通り越して、ただの非洗練、要するに下手くそかあるいはジャズではない音楽、になっちゃってたのは間違いないだろう。
プロフェッショナルの方向のトレーニングは欠かした事はないし、常にプロ意識をもって音楽に望んでいた。
が。
結果として、僕の音楽は、客やクライアントのためのものでない音楽、独りよがりのアマチュア的な音楽に成り果ててしまっていた。
主観はどうあれ。
「結果が全て」だ。
それに気づいたので、僕は、昨年の秋に、「自分の音楽活動」を一切停止したのだ。
それから僕がやってきたのは、「プロフェッショナルの音楽」だった。
自分の主観、都合を一切排し、必要な音を演奏する事。
それをやれる技術や考え方を再軍備し、ひたすら、それをこなす事だけを考えて音楽をやってきた。
だが。
それすらも、「自分の都合」であった事を知る。
自分のスタイルを放棄したようでいて、それ自体がスタイルになっていた。
気づかないうちに。
余計な事をしない。必要な音を入れる。間違いなく仕事をこなす。
・・・・何が余計な事か、何が必要な音か。・・・何が間違いで、何がそうでないか。
この日の昼間、色々とヒントをもらって、夜の現場に向うまで考えに考えたのだが。
つまり、ジャズは、洗練と野趣を上手く組み合わせてやる音楽なのだ。
完全にアマチュアイズムを排したようなやり方は、無私のアプローチは、それはそれでジャズにはならない。
会話をするには、自分の意見を述べねばならない。
ただ、相手の話を聞くだけじゃダメなのだ。
自分の話もキッチリしなけりゃならない。
つまり。
自分の中の、アマチュア的な部分をも、キッチリ織り込んでいかなければならない。
プロフェッショナリズムだけじゃ、ジャズは出来ないのだ。
演奏から、音楽から、自分の都合を排していく事。
ミュージシャンならば、誰でも、良い音楽を求めるものだが・・・・・「良い音楽をやるために」こうでなくちゃならない、自分の得意な事を出せる状況を作らなくちゃならない、自分の得意技やスタイルをやれるようにしなきゃならない・・・というのは、それは完全に「自分の都合」だ。
自分の都合を、音楽から、いったん排除してみる。
そうする事をも自分のため、自分の作品のため、と思えるように努力してみる。
あらゆる自分の都合を払いのけ、音楽を行う事に定点を定め、邁進する事。
・・・それが、洗練につながり、野趣にもつながっていくのではないか、と。
それに対して、「それじゃお客さんが面白くないだろう・・・」とか、いちいち考える必要はなく。
全力でジャズをやればいい。
全力でジャズをやって、それでうけなければ、それはジャズのせいか、自分が未熟なのか、そのどちらかでしかない事は分かる。
ここを鮮明にする事で、物事が分かりやすくなる。
この日。
「自分の都合を、音楽に交えない」というコンセプトを島野君に何やら一生懸命語ってた気がするw
・・・・まあ。見てくれの問題や、MCについての問題は、直接的な音楽の問題ではないのでw
僕の都合や主観を思いっきり交えてるわけですがwwwwww
