所長の独り言... 
とあるジャズベーシストの独白・・・
好きぞ、ジャズ・ベース
ウッベとエレベについての僕の意識

 二十数年前、ジャズやベースをやり始めた時、コンテンポラリーが全盛で、ジャズ・ベースはエレキベースやエレキベースとウッドベースの二刀流というのが主流だった。
ウッドベース(のみ)というのは、もはや絶滅危惧種で、そのうち消えてなくなる運命だった、、、かに見えた。
 90年代末からゼロ年代、ウッドベースはまさかの復権を果たす。というかエレベを使うジャズ周辺の音楽(ラテン・ファンク・フュージョン)がジャンルごと独立、或いはジャズが保守方向に純化した、とも言える。ともかくウッドベースは絶滅を免れ、むしろジャズベースの主流楽器として返り咲く。

 今だからこそぶっちゃける事が出来るけど、正直、その流れについては喜ばしくもありつつ、少し困惑気味するものでもあった。
 当時の僕の読みでは、今後ジャズにおいてウッドベースはますますオワコン化していくだろう。みんなエレベをやるようになっていくだろう。また、エレベやそれを使う音楽の影響を受けたプレイや音楽性になっていくだろう。 そんな中、あえてウッベ(のジャズ)にオールインしてみたらどうだろうか。
・・・というような、山師的な、逆張りな発想が働き。 ごくごく初期の学生時代や駆け出し時代には、それなりに(ウッドベースと同様に)練習していたエレベやそっち系の音楽をスッパリと切り捨て、弾くのも聴くのも、生音ウッドベースを使うジャズ、専らモダンジャズに特化する方向に舵を切った。
 僕の特技「思い込む(自己暗示)」を駆使し、寝ても覚めてもモダンジャズの事ばかり考え、まるで自分が元々そういう方向のベーシスト・音楽家なのだ、まるで自分がエレベやそれを使う音楽なんて見た事も聞いた事もない・全く縁がない、みたいなノリでここまで取り組んできた。
 当然、ムリがある。そのムリの部分、はみ出た部分が、時々、作曲家とかリーダーバンドとかの形で噴出する。 ウッドベースとかジャズのフォーマットとか使いながら、そこにホーン(管楽器)とか非ジャズなジャンルとか、全く別の感覚とかやり方を持ち込むような、そういう奇形な音楽となる。
 毎日毎日、普通に仕事でウッドベースを弾いて、ジャズ(の楽曲)をやったり、そのために勉強したり練習したりしていく中で、沸々と沸き起こる不満・違和感、それらをかき集め、凝縮させ、吐き出す。 本職(プロの現場)で叩き上げ培ってきたノウハウで、思いっきりアマチュア的に欲求を満たす。

 この十数年、僕にとってエレキベースは、ウッドベースを弾く事が出来ない(出すのが面倒くさい)時に、ウッドベースの代用品として弾くだけの代物だった。奏法、ポジショニング等、ウッドベースの時のそれでやっているため、どんどんエレべ弾き的でなくなっていく。
 あまりウッベの感覚とかけ離れては困るため、エレベの音作りは、(永く使ってたフィッシュマンの)PUからアンプにつなげる時のウッべのそれに近い形でやっていたし、逆にピックアップを使用する時のウッベの音作りもそちらに近い形でやっていた。ウッベの基本は生なのでそれとの混血となる。
 僕がウッドベースに特化する道を選択したのは、山師的な逆張りな打算だけではない。
 「エレキってアンプとかエフェクターとか金かかりそうじゃん。持ち運びとかシンドそうだし、ややこしいし面倒くさい。その点、生音なウッベなら楽器とシールド一本でいけるw」という 物ぐさ原則だけでもない。
 単純に、ウッベの、アコースティックの音の方が、エレキ(ベース)の音より聴き心地良かったし、弾く手応えやボディの振動が実に心地良かった。また、タッチを出す(弾き方だけで音色を使い分ける)のに適していた。硬い音色から柔らかい音色まで、押さえ方とピッキングで色々使い分けられる。
 十年くらい前、スタジオレッスンを沢山やっていた頃は、ついでに自主トレ(個人利用)でスタジオ借りて練習していた。なんせ時間ごとに料金が発生するので、1分1秒ムダに出来ない。 2時間、ガッツリ弾きこむ。高不可トレー二ングだ。そのためのメニューを予め作成して、詰め込み式に練習した。
 この期間が長らく続き。
 やがて、小型ミキサーやプリアンプ、ミュートなどを揃えて自宅練習に切り替えた。 スタジオ時代は生だったが、自宅練習では隣近所のご迷惑にならない時間帯、ミュートかけてミキサーに刺して、ヘッドフォンで聴きながら弾くようになった。
 
 「楽器とシールド一本」に「プリアンプとシールドもう一本」が追加された。 多少面倒くさくなった(かさばるようになったし、セッティングの手間が増えた)が、自主練と本番とで条件を近づける(ほぼ同じ感覚で弾く)事が出来た。
 環境(店のサイズやアンプ、気温湿度)による違いが軽減された。
 プリアンプを使い、ヘッドフォンをハメて(ミキサーでスマホやタブレットのアプリを併用して)練習する割合が増えた。
 依然弾き心地や体感で伝導される音、ヘッドフォンごしに聞こえてくる「生音」の感触はあるのだが、「生」と「ライン」の比率がどんどん変わり、やがてラインがメインになってくる。

 思い出してみたら。
 キャリアの前半生、まだ活力に満ち溢れていた時代w、ライブハウスではないホテルやレストランやパーティ会場で演奏する仕事を沢山やっていた時期がある。 また、自分のリーダーバンドやオリジナル曲の演奏ばかりやっていた時期もあった。 これらの時期は常にMyアンプを持ち歩いていた。
 つまり、「ライン(からのアンプ)の音」が自分の音になる。 また、そもそも、最初にベースに出会ったのが学生ビックバンドで、騒音...もとい、他のメンバーやパートがそれぞれ練習してる中、ドラムがドカスカやってる中、デカいアンプで結構鳴らして曲の練習していたり、していた。
 よくよく考えてみたら「静かな環境で生音で練習する」というのは、しばらくやった後で、その必要を感じてやり始めた事であって。 最近まですっかり忘れていたけど。 ごくごく初期の頃は、ベースという楽器はアンプにつなげて(バカッ吹きするフルバンに負けない)音で弾くもんだとばかり思っていたw



 環境(シーン)の激変

 繰り返すが。
 二十数年前。世の中、音楽シーンは空前のCDバブル。 メジャーに限らず、ロックやらブラックコンテンポラリーやらワールドミュージックやら、ウーハーだの巨大スピーカーなど、とにかくド派手な増幅された大音量、爆音がデフォルトだった時代。
 WOWOWとか、モントルーのジャズフェスとか衛星放送番組(を知り合いに録画して貰っていた)VHSや市販のジャズ(系)録画作品(をダビングして貰っていたもの)とか、とにかく手に入る限り手に入れて貪るように観まくったものだが。 全体的に、ギンギンだった、ように記憶している。
 
 晩年のマイルスやマーカスミラー、ジャコ、パットメセニーグループやチックコリアのエレクトリックバンド辺りが最先端、ど真ん中。 アコースティックバンドがちょっぴり正統派ジャズ(スタンダード)回帰路線。 後はMJOのチャーネット・モフェット辺りが人気あったかな、と。
 ゲイリーとかペデルセンとか、いわゆるECM系、ヨーロッパ系のアコースティックなジャズ、ピアノトリオとかは、ジャズというより、だいぶクラシック寄りの音楽という扱い方をされていたように記憶している。
 いわゆる「コンテンポラリー・ジャズ」というのが圧倒的にメインストリームだった。 往年の、モダンジャズ・スタイルのウッドベースというのは、本当に変わり種というか、希少種と化していた。
 そんな時に、新しい潮流として出てきたのが、ニュー4ビートとか、新古典派ジャズとか言われたスタイルで、ニューヨーク風というのか、90年代的な、モーダルでブルージーでヒップな、あの独特のテイストを持ったジャズだった。 あれが流行りだした辺りから、一気に「アコースティック化」していく。
 かつて、ウッベに変わってジャズベースのメインストリームとなっていた(筈の)エレベが、瞬く間にジャズ畑から駆逐されていった、ように思う。 元々両方やってたベーシスト達はウッベに絞るだけで済んだが、エレベ一本でやってたベーシスト達はいきなり干された形になり、ジャズ業界を離れたりした。
 
 このジャズ畑の急速なアコースティック路線化の流れに、ウッベに特化(オールイン)する方向に舵をきっていた僕は、最初は「ラッキー☆」と歓迎していたが、やがて、思わぬ事態に遭遇する。 繰り返すが、当時は、エレベか併用が主流。同世代にウッベだけに特化するようなヤツは滅多にいなかった。いたのはフュージョン全盛期からコンテンポラリー・ジャズ全盛期にかけて、時代に関係なくウッベを弾き続けてきたチャンジー、、、もとい、年輩のベーシスト達だった。
 大抵は「息を合わせるのは飲みにケーションから」「本番(仕事)を以って練習に代える」「長年の経験則と老獪さ」でやってる人達だった。若い頃に鍛えた貯金を切り崩して細々とやっているように見えた。こう人達に実戦経験とか曲知識とか熟成された味とか、そういうもので張り合って勝てる訳ないし、そもそも、その後ろを追うつもりもなかった。
 とにかく、練習したり勉強したり、セットの合間すら(ヨタ話に加わる事もせず)曲集やらメモリー帳やらを見て指練したり耳コピしたり、必死過ぎな感満載でやっていた。 圧倒的なペーペー、弱者だったので、油断したり安心してる余裕がない。「お〜い。さっきは良かったよ。」とか言われても、「・・・どこが良かったのか僕には分かりませんね。 僕の中ではありえない、自分でダメ出ししてる所なんですがw」みたいな、人としてアウトな対応ばかりしていた気がする。
 
 とにかく、この、ニッチな「ウッド専門」路線で突き進んでいってやろう、と椅子取りゲームにムキになっている内に。
 若手世代のエレベとウッベを両方やってた系のベーシストが次々にウッド一本で行くようになっていき。
 そうこうしてるうちに、不景気の中、マトモな就職に希望を持てず、わざわざこちらの(ジャズの)世界に進路を決める世代とか出現。 
 さらに、音大(ジャズ科)系とか、本番留学帰国組とか、ウッドジャズは絶滅するどころか、ベーシスト供給過多を起こしている。 この新しい世代のウッドベーシストに人気があるのが、やはりマクブライドとかアビシャイとか。  
 その後、次々と新しいウッドベーシストが現れ、それが参加したアコースティックなバンドやサウンドばかりになり、すっかり「ジャズではウッドベースがデフォルト」になった。 まさか、ここまでジャズベースの世界がウッドベース一色に染まるとは思わなかった。 あの絶滅危惧な変わり種が主流になるなんてw ・・・完全な誤算、読み間違えである。


 しかし、それが誤算だった事すら忘れていた。自己暗示、おそるべしw
 すっかり、自分が根っからのウッドベース専門、ジャズベース専門のような錯覚に陥っていた。それで一生懸命、必死こいてウッドベースに、ジャズに、取り組んできた、のだが。
 昨年秋に環境を一新し、エレベでエレベの練習をやりはじめ、心境に変化が出た。初心ってヤツを取り戻し始めた。
  「みんな、こうしてる」という時、「じゃあ、その方向で頑張らなきゃ!」という考え方は、僕には、無い。
  「みんな、こうしてる」「なら、他のやり方をしてかなきゃいかんな」 これが僕の考え方である。
 混雑したり、並んだりするような所は好まない。他を探る。
 勿論、今後もウッドベースは弾いていく。活動の中心はウッベになるだろうし、コンスタントに練習はしていく。 だが、それに縛られたり囚われたり事もない。 こういっちゃなんだが、あんまり、ムキになる事もこだわったりする事も無い。個性とか、他には無い何かを追求したり死守したりする事もない。
 別に、いま流行りの生音系の音(の鳴るピックアップ)にしようが、電気(ピエゾ)っぽい音にしようが、マイクだろうが、、、ど〜でも良い。 もはや、なんもこだわる気がしない。 現場ごと、メンツごとに、合う方(求められる方)を選んで、やれば良い。 どちらも、僕であり、僕でない。

 それで、新しくハコ鳴りのピックアップを追加装備して、切り替えしやすくした。 目下、僕にとっての最大の格闘相手は、ウッベでもエレベでも譜面でもなく、DTM(DAWソフト)や鍵盤(MIDIキーボード)である。気が遠くなるようなヘビーな戦いであって、他で悩んでる余裕が無い。
 まだまだ使いこなせる所まで行っていないが。
この二つが使いこなす事が出来るようになれば、これを中心に、ウッベやエレベ、譜面(作曲やアレンジ)など、これまで取り留めなく、統合失調(精神分裂)気味にアレコレとやってきた僕の活動を、音楽を、統合していく事が出来るだろう。



好きぞ、ジャズベース

 以前、「(言動からすると)一見パラノ(偏執型・安定志向、形式主義)のようでいて、実は思いっきりスキゾ(分裂型。常に制度や秩序から逃避・脱出して行こうという非定住タイプ)だ」と評された事がある。
 言われてみればその通りで。次々に新しい事に手を出し(新しい居場所を作り)、移る。

 なんで、初対面の人とかにパラノ型人間とか真面目とか誤解されがちなのか、それで行き違いが生じるのか、自分なりに考えてみた。 AからBへ、BからCへ、、、ZからA`へ。随時ベクトルとかアプローチとか変えていく、移行する、とは言え。 一定期間はある地点(及びその周辺)に腰を据える。
 「郷に入りては郷に従え」というが。 新しい事に手を出すとき、新しい現場にクビをつっこむとき、その都度その都度、新参者・初心者として、謙虚に、「あ、すいません(汗) 自分、こちらじゃ本当に右も左も分からない新人ですんで。。。」という腰の低い姿勢でいる、そうあろうと努めているからだろう。
 ヨソでのアレコレをもって「自分は経験あるんだ。素人じゃない。それなりに知識も技術もあるんだぜ」みたいな考え方でいると、何も学べない。
 昔ゴーストバスターズという映画に「俺は◯○も、◻︎◻︎も、それどころか専門の筈の△も分からない、というつもりで説明してくれ」というセリフがあった。一見、切羽詰まった中であるにも関わらず空気を読まないふざけた発言のようにも見えるが、とても真摯で誠実で謙虚な質問セリフだ。 見栄を張らず、知ったかぶりをせずに、情報や現状を整理しこれからどういう行動をすべきか、もっとも正しい現実的な選択をしようとする上でアレが正しい。

 この仕事やって、そこそこ年数を積み重ねてきている。勝手に、色々と経験を重ねてきてるだろう、分かっているだろう、みたいに思われたりする。
 特に、こういう風に、独り言をしょっちゅうしてると、「世に物申すキャラ」というか、そういう風に勘違いされる。 (単なる独り言なのに。。。)
 世の中には色々な商売や表現があって。 アーティスト的というか、人間性とか磨いて、格好良く見せる事に重きを置いているタイプの人がいたり。 或いは、親近感とか そういう事に置いている人がいたり。 それはそれで良い。それぞれに色々と大変だ。
 ところで。 僕は、いつでも、僕である。
 常に、自分は何をしたいのか、自分はどうしているのか、自分はこれからどうしていくべきか、、みたいな事しか、考えていない。 良くも悪くも自分の事しか考えていない。こういっちゃ何だが、あまり他の人がどうだとかこうだとか、(自分に利害が無い限り)あまり気にしない。自己中心的である。
 ただ、自分の事ばかり優先して周囲や他者をないがしろにするような、中途半端なジコチューは良くない。 というか僕に言わせれば、そんなものはジコチューではない。 本当のジコチューならば、周りを大事にする。自分を中心に考えつつ、常に周囲や他者を意識する。 でないと「中心」でなくなるから。
 なので、まぁ、あまり周りに迷惑をかけない程度に、、、と常に気を使ってはいるが。 根本的には、やっぱり自己中心的である。世間体とかイメージとか気にしない。 だから「移住型」でいられる。 平気で「これ全然出来ない。無理w」みたいな事が言える。 出来ない事はキッパリと出来ない、という。

 ゼロベースで考える事が出来る。
 これまで苦労して築きあげてものを、足場を、立脚地を、全部崩して、真っさらにして、次に(先に)進む。
 これこそ、単身活動の、フリーランスの最大の強み、利点である。
 というか、それをやらない(それが出来ない)と、フリーランスでいるメリットが無い。
 
 組織・グループに属したり、率たりする人の場合は、そうは行かない。
 パラノ的というか、コミュニティや秩序の中に定住し、コツコツと地道に実績や信用を積み重ね、築き上げていく、安定的に成長していく、そういう考え方や素質が要る。
 僕にはそれが決定的に欠如してるのでフリーでやっている。
  
 フリーランスと集団組織。これらは、持ちつ持たれつ、提携したり共同したり、するのが理想と心得る。
 たまに、フリーランス同盟というか、アンチ・メジャーみたいなものに巻き込まれそうになるが、そのたび距離を置いている。
 スキゾなフリーランス(非属)気質なので、そちら側にも加担する(属す)気持ちは、無い。

 まぁ、移住型だか分裂型だか、とにかく流動的で移り気なタチだが。
 その時々では拠点を作り、そこを中心に動いている。一生懸命取り組む。
 その時点だけを切り取ってみれば、偏執的に、とても保守的・安定志向なキャラに見えるのかも知れない。
 人一倍、不器用で物分かりが悪いので。 郷に入るたび、郷に根を張り定着してる人々よりも必死に、コツコツと地道に取り組まねばならないから、そうしている、というだけの話で。 。。

 今は、ちょうど、季節(年度)の変わり目。
 キャンプを畳んで、次のステップ・フィールド(草原)に移行しようとしている、そんな時期だ。

 以上。
 何はともかく「好きぞ、ジャズ・ベース」
 というお題の独り言でした。

 終わり。 m(__)m
 
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面倒くさい話
仕事に、私事に、あれやこれやで目が回るようなバタバタした日々が、ひと段落。 ようやく腰を落ち着けて、作曲作業や練習に取り組める。。。
バタバタした割には収穫の少ない、正直ゲンナリさせられる事が多い数週間だった。 まぁ、生きてりゃ色々ある。
総じて客足が伸びず。
まぁ、ニッパチのニッ!とか年度末とか、時期的な問題もあって、結果的なもんだから仕方ない。
が。 この寂しい状況が、人の気持ちを落ち込ませて、暴言無礼を働かせる。
僕としてなるべく、平静を保つつもりだが、あまりに無礼だと「何だと!?」となる。



ミュージシャンに出来る集客努力

こちとらフリーランスの音楽屋だ。上なし下なしでやってる個人商売だ。
ギャラを頂戴して仕事で協力する、音を売る事はあっても、店の従業員やら歌手・リーダーとかの専属アシスタントやら、そんな立場じゃないし、そんな風な扱いを受けなきゃならん覚えは、無い。 どうも何か勘違いしてるようだが。
 いったい、どういうつもり、何様のつもりなんだろう。
 せめて札束で頬っぺた叩きながらモノを言うとかなら、ともかく。
 出すもんも出さんで、言いたい放題。
 集客努力が足りない?
 阿呆か。
 ミュージシャンの集客努力は頑張って音楽をやる、それだけだ。それ以外に何がある。

 お門違いも甚だしい。 そんなに集客したくて仕方ないなら、まず自分で広報担当やら営業担当やら雇うなり、コンサルタントとかに相談するなり、当然それなりの経費をかけるなり、すりゃ良い。
 そんな努力もしないで、自分の(店の)集客力不足を棚上げして、出演者にあたるとは一体どんな了見なんだ。
 なんか「出してやってる」「やらせてやってる」みたいな感を出してるが。

 まぁ、人それぞれだ。 他の活動やライブの宣伝告知、レッスンの生徒集め、自己PR、その他諸々の理由で、マーケティングとかの用語で「集客商品」というのか、そんな感じでブッキング希望する人もいるのかも知れないが。
 僕は元々そういう系じゃない。しかも、現在は自己のグループとか、バンマス的な活動とかも、していない。 常に単独で活動してる。
 なので。 変に足下見られて上から物を言われなきゃならない理由もなければ、自ら頭を下げて「出してもらう」「やらせてもらう」理由も、無い。
 
 そういうリーダーの弱みというか、泣き所につけこんで、安いギャラで人をこき使おうとか、それでも飽き足らず、さらに集客努力させよう(営業努力を押し付けよう)とか、それが当然みたいな顔するとか、、、どんだけムシのいい話してんだ? ずいぶんセコいアコギな商売してるじゃないか。
 そんなトコで鵜飼いの鵜をやらされる程、ウブでもお人好しでも無い。 こういっちゃなんだが、自ら請うて出るようなアクティブ性など持ち合わせていない。
 ほぼ常に、依頼を受けて引き受ける形式である。
 行って、ベースを弾く、それだけだ。
 それ以外(それ以上)の事は「いたしません」だ。

 まぁ、売り言葉に買い言葉で。 僕も、ついついカッとなって、ちょっと言い過ぎた。
 明らかに過剰防衛だったし、言葉の暴力、まさに暴言だった。
 相手も痛かろうが、殴ったコチラも手が痛い。それが不快で気持ち悪い。
 僕は基本的に温厚、無難、人畜無害に、出来るだけ友好的に、礼儀を守って、余計なストレスなく仕事に取り組みたい、と思っている。 しかし、一方的に殴られて黙ってはいない。反対の頬差し出したり、無抵抗主義の実践したりはしない。 ハムラビ法典か、半沢か、ついカウンターを出してしまう。
 喧嘩を売ったり買ったりするのは、演奏の中だけで充分だ。演奏の中では喧嘩はアリだが、言葉で、場外乱闘とか、本当にウンザリだ。 口喧嘩は苦手だ。苦手なので、手っ取り早く、急所ついて致命傷負わせて終了させてしまう。黙らせる。それで恨みを買い、周囲をドン引きさせてしまう。



ミュージシャン・シップとは

 あと一部のボーカリストにも。
 昔から、「ボーカルジャズ」業界はちょっと独特な世界で、「一流の店でやれるようになったらエラい」みたいな部分がある。  そういう店に出入りする人が一流、そうでなきゃ二流三流、、、と勝手に見下し、上から物を言う。
 インスト系のミュージシャンやハコと絡みの多い人はあまりそんな事ないが、どっぷりボーカルジャズ業界に浸かってる人の中には訳分からん人がいる。どうやら、その人(種)にとっては、基準はそういう肩書とか経歴とか、それが全てであるらしい。で、自分はそこに出て、そういうバンドで歌った事があるから、一流だ、と。・・・あ~、はいはい。そうですか。おめでとう。そう思ってれば良いさ。

 あちらの業界(セカイ)は独特の価値観・基準・序列・不文律がある。
 随分苛烈な集客ノルマが課せられたり、集客をキープしたりシェアしあったり共同体(シーン)を維持するために、お互いにライブに行ったり来たりの贈与論が展開されている。 という事は知っている。それについて物申す気はない。
 それは、はじめから、そういう世界なんだから。言う事は何もない。
 それが出来上がってる所に、承知の上でやっているのだから、外野がとやかく言う事はない。
 しかし、そっちの世界の道理やジョーシキを、音楽そのもの以外に必死にならなきゃならない形をこちらの世界に持ち込まれても、困る。
 仕事日照りの中、どうにか仕事を作ろうとしてる演奏家やバンドリーダーの中には、ボーカリストからステージングとか宣伝力とかを学んだり影響を受けたりする事も昨今は多い。
 それは良いが、なんか、余計なもの(変な集客ノルマに関する責任感とか強迫観念)まで貰って来たり、してる。
 
 集客ノルマなど無いよ。ボーカルジャズのステージとか、ハコ貸しのロック系ライブハウスとかなら、いざ知らず。
 店から、固定ギャラとか保証額を提示されて、依頼を受けて演奏するというのでない限り、チャージバックの場合、そもそも仕事でないし、ハコとミュージシャンの立場は同じである。
 なんか、色々とゴッチャにしてる、錯覚してる、思い込んでる人が多い。 それを利用してる人、利用されてる人が多い。
 別に、特にそれについて何か言う事はないが、火の粉かけられたら振り払わねばならない。
「何か勘違いして必死なようだけど、それ、根本的に間違ってるから」

 今時の行儀良い礼儀正しい反骨精神とか無縁な若者が、ロック音楽をやる時に、それはそういうもの(作法)だと思って、転がしスピーカーに足を乗せたり、ギターを叩きつけたり、それがカッコイイ、いかにもミュージシャンらしい(っぽい)振る舞いだ、とか思い込んでるくらい、意味ないし馬鹿馬鹿しい。
 「なんか、みんな、そーしてるから」
 「憧れの◯◯さんも、そーしてる(そー言ってる)から」
 とか、訳わからない理屈、雰囲気で、倣って、やってるだけ。
 それは構わないが。 それをコチラに要求してくる、「やってない」と非難してくるなら。
 そもそもの部分、立脚してる所から潰すよ。

 で、「そもそも」な所から、完全に論破してしまうと、面目とか価値観を崩された相手に逆上されてしまう、と。
「感じが悪い」だの「性格悪い」だの、完全に感情的で主観的な事を言われる。
 こうなると、もう、意思疎通の手段が無い。 ため息ついて「あ〜そう」「話になんない」と流すしかない。
 これが、キャリア30年、40年、50年とかのベテランになったら、火消し技術とか向上するのか、そもそも火事にならないように手を打てるようになるのか、知らないが。
 残念ながら、まだまだ、そこまで達していない。理不尽な目にあったら、スルー出来ず、ついつい反応してしまう。
 あ”〜、面倒くさい。

 面倒くさいの大嫌いなんで、時々活動や人間関係において「ふるい」をかける。というかムラから外れる。
 グダグダした、しがらみとか、既成的慣習とか、それに捉われる事に必死になるとか、、、パス。
 KYで結構。もし、なんか用があったら、そん時だけ呼んどくれ。



付き合いきれない

 仕事上の付き合いならありえるが、付き合いで仕事は出来ない。
 昔から常に「付き合いが悪い」って事について、まぎれもない事実だから反論はしない。そして誰の音楽性とも一致しない。 もし「付き合いやフィーリング・価値観の一致が大事」と考えるなら、他の付き合いが好きな人に頼めば良い。
 僕は、ただひたすら、マイペースに、自分の業に取り組む。
 日々常々練習し勉強し、依頼が入れば最善を尽くすべく全力で取り掛かり、無ければその分さらに練習し勉強する。か、考え事に耽る。
 昔から今まで変わらないし、たぶん、今後もそうしてくだろうし、一生変わらない。
 たまに、気まぐれにセッションやライブに行く時はあるが。 それはあくまでそうしたい時、都合の良い時に気軽に行くのであって、来てくれた礼だとか、来てもらったり自分の宣伝したりするため、とかそういうものではない。
 だから、常に言うのだ。 「都合の良い方、気軽にお越し下さい」と。
 
 集客(努力)をしてないとか、言われる筋合いはない。 というか、充分してる訳だし。それでやってない、と言われたらカチンと来るし。足りないと言われたら「そーですか。他をあたって下さい。ほな、さいなら」と言う他ない。
 音楽以外の事出来るなら、そもそもミュージシャンやってない、ての。
 
 たまに、リーダーバンド組んで、オリジナル曲とか、そういう「アーティスト」的な活動を、自己表現(パフォーマンス)をやる時も無くはないが。
 それ以外の時は、「ベースを弾く」で完結してる。他人のリーダーバンドで、差し出がましい真似や自己主張はしない。
 現場で、サイドが、めいめい勝手に主張したり仕切り始めたら、混乱するだけだ。 そもそも「この選曲どうなんよ? 」「このアレンジどうなんよ?」とかやり始めたら、何も出来なくなってしまうだろう。
 だから、僕に出来る事は、黙って出来る限りを尽くして弾く、それだけしかない。 
 それを「タダ乗り」扱いされたりしたら、たまったもんじゃない。
 よりにもよって、ベーシストに、乗っかってるとは、何事ぞw
 どちらかと言えば、乗せて(背負って)歩いたりランニングしたりてるのは、ベーシストだと思うのだが。いや、それはあくまで演奏役割上の話だけども。
 涼しい顔して、気軽そうに、何も考えてないような感じで、楽々と、弾く。 そりゃそうだが。
 そのために、日々どんだけ練習や勉強してるのか、全く分かっちゃいない。
 こういう事を言ってくる輩は、大体、ベースを触った事がない、ベースのやってる事が全く分かってない、と相場が決まってる。
 勿論、ちゃんと理解のある他パートプレイヤーやボーカルもいる。
 しかし、たまに、そういうお客さんよりも理解や配慮のないような輩とかち合うと、何というかガッカリする。もはや何も話す気になれない。付き合いきれない。

 あと、「私のバンド」扱いされるのも真っ平だ。
 「私の(参加してる)バンド」というニュアンスで使われるならともかく、「私の(バック)バンド」みたいなニュアンスで使われたり、言ってる内に自己暗示するのか、アゴで使おうとしてくるとか、無視したら「気が効かない」とか。 ・・・阿呆か。
 腹を立てるのも馬鹿馬鹿しい。 馬鹿馬鹿しい思いをさせられのは真っ平だ。

 「やって貰ってる事」「やってあげていない事」には気づかず気にせず、「してあげてる事」「やって貰ってない事」ばかり気にする。 分かってる方が穏当にしようとしても、下手に出りゃ、つけあがる。
 ものの価値、協力する人の有り難み、感謝、そういうものに欠けてる当たり前だと思ってる輩に、何か提供するのは、無駄だし、勿体ない。得る物は無い。時間や労力をドブに捨てるようなもんだ。
  ・・・ああ、ずいぶん勿体無い事しちゃったな。
 それが、この数週間の、総括・反省である。

 まぁ、半分は自己責任だ。
 昔、実入りの良いヤマを引き受けた事もあったので、ちょっと期待していた、ヤマ師根性が働いた、そんな所が無くもない。
 羽振りの良い頃は、多少アレでも、何しろ条件が良かったので、あまり気にせずに引き受けてたが。 そうでもなきゃ、嫌な所がクローズアップされる。
 何しろ仕事だから、実入りにつながるなら、堪忍袋も大きくなる。
 しかし、そうでもなきゃ。
 金の切れ目が縁の切れ目。

 そもそも音楽屋の縁なんて、仕事ありき、だし。
 それを、昔の事で恩着せがましく、いつまでも引きずられても困る。
 それはそれ。これはこれ。
 面倒くさい。
 付き合ってられん。



面倒くさい

 集客、宣伝という事に関連して言うならば。
 お客さんをお呼びする以上、あやしげな、何かしら問題があるような場所やイベントを告知する事は出来ない。
 衛生的に、風紀・治安的に、品質的に、マイナス要因がある場合、積極的な宣伝告知は出来ない。
 目先のギャラに目が眩んでw、結構際どい内容のシゴト、怪しい(アヤフヤな)内容のシゴトを引き受ける事だって、ある。
 だが、どういう曲、どういう編成メンツで、何時から何セットやって、チャージは(ついでにバックは)いくらで、とか不明なようなものは「来てください☆」とか言えない。
 ホテルやパーティー等の生演奏仕事とかの特に宣伝する必然の無いものとかも、特に告知しない。
 以前、こういう仕事について、他所でみだりに触れまわるもんではない、的なご指摘を貰った事もあり、近年では、そういう仕事についてはネットでは書かなくなっている。 
 
 snsやブログで紹介するのは、ライブハウスでの演奏やセッション、の中で、特に問題のなさそうな(安心して呼べる、来て頂けるような)ものに限られている。
 場所によって差があると良くないから、テンプレート的な宣伝告知文を書き込む。

 とりあえず。
 大体、ライブハウスの演奏とかだと、面倒くさくないよう、次のようなやり取りとなる。
 「◯月◯日、あいてる? 夜、△△なんだけど、□時入りで入れる?」
 「はい。行けますよ。」
 「じゃ、宜しく〜」
 たったこれだけのやり取りしかしてない、ロクな情報も貰っていないようなものを宣伝したり集客したり出来る程、僕は有能じゃないw
 行って、弾く。それだけだ。
 シンプルなやり取りで、二つ返事で引き受ける場合は、「当日現地に行って、弾く」以外の責任は何も負わない。
 宣伝だの集客だの、しようがない。
 しようがないので、していない件について、なんか言われる筋合いは全く無い。

 引き受けた時点で了解しちゃってるから、結果について、こちらからそれ以上ゴチャゴチャ言う気はない。
 何も言わないか、他人事的に「残念だったねw」とか笑い話にするか、せめて出張った分くらいは楽しんで帰ろうと全く関係ないヨタ話・世間話でもして帰るか、そんくらいである。
 それに対して、気軽だとか、やる気ないとか、努力してないとか、そういう事を言われる筋合いは、全く無い。
 やる気もなく、わざわざ楽器かついで出かけて、全セット演奏したり、するものか。
 また、そのために日々取り組んでいる件については、「やる気」「努力」とやらに算定されないのか。
 
 そんな、下らない思いをさせられる、知らず知らずのうちに慣らされていくくらいなら。
 そんな考え方の所や相手と、密度の薄い、中身の無い、緊張感の欠片もない、ムダな合奏練習をさせられるくらいなら。
 自主トレしていた方が100倍は有意義である。
 僕はいつでも、真摯に、音楽に、アンサンブルに、その場その場でサウンド作る事やベストを尽くす事に、全力を注ぎたいと思っている。 ライブだ、セッションだ、プロだ、アマだ、関係ない。 状況や相手に合わせて、手を抜くようになったら、左右されるようになったら、ヤバい。
 ちゃんと自分でキープ出来るプレイヤーの揃った時なら、なんかやらかそうとする時もあるし。 仏頂面で、極めて業務的に淡々と冷静に弾く時もある。 しかし、やる気において差はない。意識するポイントやアプローチが違うだけだ。  僕は出不精なので、ムダに出かける事はしない。
 つまらないと思ってダラダラやってたら、本当につまらない事になるし、つまらない人間になり、つまらない人生を送るはめになる。僕はそうしたくない。
 が、こちらがどんなに真面目に取り組んでいるつもりでも、向こうにそうじゃなく、悪い(的外れな)風に思っているのなら仕方ない。
 「・・・じゃ!」サイナラ、である。
  「共演NG」指定まではしないが。
 なんか用事(シゴト)があった時、どうしてもベースが見つからなかった時とか、向こうからコンタクトとってくる時はあるかも知れないが。 こちらからコンタクトとる事は、多分もう無い。 面倒くさい。

 面倒くさい。 面倒くさい。 あ〜、面倒くさい。 面倒くさい。
 すっかり「面倒くさい」が口癖になってしまい、行く先々で、面倒くさいを連発してたように思う。
 面倒くさい思いを抱え続けてるのも面倒くさいので。
 ダーっと、こうして書いて。
 面倒くさい話は終わりたい。
 
お断りの理由
 開発者や研究者は、企業なり研究機関なりから給料や資金をもらいながら、開発や研究に携わる。
 新しい製品の開発や新しい分野の研究に取り組む場合、中々芽が出なかったり、完全に失敗に終わったり、結果に結びつかなかったりもする場合が多い。
 それでも、時々結果が出せたり過程そのものが、試行錯誤の記録やデータなどが、今後の何かにつながる可能性があるので、企業や機関は開発者や研究者を雇い続け、その分の給料や資金を支払い続ける。つまり先行投資する。 どれだけ先行投資出来るか、その余裕が持てるか、が将来に関わってくる。

 一方。雇われでないフリーランスだと、全てを自分で調達しなくてはならない。勿論企業や研究機関のような潤沢な資金は望むべくもない。打ち出の小槌がない中で、なんとか資金や設備機材を調達し、開発や研究に取り組み、結果(ヒット商品開発とか、特許や賞の獲得など)に結びつけていかねばならない。
 正規雇用の開発者や研究者の場合、当然さまざまな要求なり作業ノルマなり時間拘束などで負担やストレスはあるのだろうが、その分、給料という形でコンスタントに代価を受け取る事が出来るし、それで生活費に回したり娯楽に回したりしてく事は可能だろう。自分の持ち出しで機材や設備費を払う事もない。フリーランスの場合、それが無い。 結果に結びつかない限り、試行錯誤中である限り、すべては単なる無駄な(労力や時間や経費の)浪費となってしまう。 なんとしても結びつけていかねばならない。そして、後でその分、キッチリ回収していかねばならない。

 自分の持ち出してきた、カネや手間や時間について自覚していかないと、それを回収してかなくちゃならない事を思い出していかないと。
 かけだしの、キャリアの浅い新人の5分と、キャリアを重ねてきた音楽家の5分は同等ではない。自戒を込めて言うならば。フリーランスの音楽家は気前良すぎがち。
 みんな、気前が良いというか人が良いというか、謙虚過ぎるというか。 偉ぶらない、お高くとまってない、という点で、一部にはウケるが、ウケた所で獲得できる実入りは若手と同レベルだったり、下手すりゃ若手の勢いとか将来性とかの方が、これまで積み重ねてきたものより低く安く見なされたりする。
 駆け出しの頃、若手の頃、「どんなヤマでも引き受けます! 儲け少なくても構いません! とにかく修業の場を、チャンスを下さい! 宜しくお願い致します!」みたいなノリで、ブラックバス並みのガッツキで何でもかんでも手を出していった時期もあるが。
 昔と同じノリとかメンタリティでやってちゃ、例えそんなつもりなくとも、自らを(これまでやってきた積み重ねてきた活動の全てを)安売り、叩き売りするのに等しい。
 自分の価値を、収入を下げている、価格破壊を起こして、泣く羽目になっているのは、他の誰でもない。自分のせいだ。

 というわけで、この所、「他をあたって(その条件でもやってくれる人を探して)ください」とお断りしてる件がいくつかある。
鵜呑みにせず自分でやる事
世の中には様々な考え方ややり方がある。レッスンについても、そう。
僕のレッスンでは、当然、僕の流儀を教えるわけだが、必ず言うのが「こちらの言う事を信じるな」とか「手本見せたりもするけど、それの真似とか追従などしてはいけない」という事だ。 レッスンなのにw
まず、そもそも体格が違う。 手の大きさ、筋肉、重量、色々と違う。 そして、時期によって馬鹿みたいに練習に耽ったり、逆に譜面と睨めっこしたり、案を練ったり悩んだり転げ回ったり、色々とあるが。 毎日毎日、音楽や楽器と対峙して生活している人間と、条件が同じになる訳がない。
音楽や楽器に取り憑かれて、二十年くらいやってきて、ようやく分かってきた良さとか面白さとか、そういうものが、ちょっと触れたくらいで(レクチャー受けたくらいで)分かったり会得出来たり、する訳がない。また、僕自身、今後精進してく過程で新しい境地を見出し、変わっていくかも知れない。
追いかけようとするより追いつこうとする方が、追いつこうとするより追い越そうとする方が、力をつける事が出来る。
教える人の言われた事をまるまる信じたり鵜呑みにしたりした先に辿り着けるのは、教える人の足元、いや、はるか後方である。そんな所を目指しちゃあいけない。

じゃあ、レッスンで何を言ったり教えたりするのか、と言えば。 あくまで僕の流儀だ。「僕はこうしている。こう思う」という事を教えている。世にゴマンとミュージシャンやベーシストやスクールはあるし、それぞれあるだろうから、もし「違うな」「参考にならないな」と思えばそちらをあたれば良い。
全ての人の、全ての意見は、正しいのだ。その人の流儀の中では。 しかし、他人である自分にとってそうであるとは限らない。一部は適合するかも知れないが、完全に一致する事などない。
だから、あくまで一つの参考として聞き、ストックしといて、使えるものだけ使えば良い。
参考になる人、アテになる人、信用出来る人、ついていける人、、、、を探しても中々見つかるもんじゃない。見つからなかったり、或いは無理(やせ我慢)したりする羽目になる。
それに、いつでもどこでも通用する「マスターキー」みたいなモノを求めたりしても、そんな都合の良いもの、ある訳ない。
それでも。時間の無い中、楽しくやりたい社会人、アマチュアの人達には、それでもなるべく楽しんで音楽や楽器をやって頂ける方法を提案・提供したりはする。楽しむ上で退屈しないように、順序良くステップアップしていけるように内容を考える。近年は比較的こちらが多い。うちに限らず。
しかし。所詮は「楽しむ事」を主眼においたものでしかない。

もし、本当に取り組むつもりなら。 まずは毎日毎日、一日中、練習に音楽に、取り組んでいく態勢を作り上げなくてはならない。 一日、或いは週に一〜二時間やるだけで会得出来るなら、世の中達人ばかりだ。そんな簡単な話じゃない。
仕事や家庭を抱えた人に、「まず、とりあえず仕事や家庭を放棄して、いちから出直してきて下さい。話はそれからです。」みたいな身もフタもない事を言ったりしても仕方がない。その責任など、とれない。
それは、若い人、これから就職しようとか家庭を持とうとか、そういう人達相手でも同じ。

しかし。たまに、学生とかで、「あ〜、コイツは、コッチ側の人間だわ。。。」と感じる何かを持った若者とかに出くわすと、ついつい、エールを送りたくなってしまう。
上でグダグダしてる連中など眼中に入れず、認めてもらおうとか下につこうとか考えず、とにかく、ひたすら突っ走れ。
何かを、とことん鍛錬し、練り上げ、他の誰にも真似できない専売特許的なモノ、突き抜けたモノを獲得し、それを武器として勝負していく。
この世界では、基本中の基本のような話だが、そんな基本中の基本の話が隠れて(隠されて)見えにくくなっているような感も否めない。

年重ねてくと、気をぬくと、ついついあーだこーだと理由を作ってグダグダしてしまいがちになる。 最近、いきの良い若者に出くわす事が増えてきた。 こういう連中に遭遇するたびに、なんというか「グダグダしてちゃいけねーな。邁進せねば」という気持ちにさせられるし、力を貰える。
醜中の醜  新しいジャズ・エイジは来たるか。
 美とは人間にとって愛でたい求めたいもの、醜いとは人間にとって見たくない避けていたいもの。
 美を、都合の良いものばかりを抽出する事で現実離れした理想的なモノを追求する芸術もあるが。
 逆に、醜を、おぞましく生理的嫌悪感をもたらす現実離れしたものを表現する芸術もある。

 程々の分量、ちょいと嗜む程度の美の追求は、生きるための糧となり生活に刺激や活力をもたらすカンフルとなる。
 しかし、度を越してしまう(自分の容量を超えて摂取してしまう)と、生きる意欲を奪う毒になってしまう。 現実生活に刺激や活力どころか、絶望とか失望とか倦怠感とか頽廃とか、もたらす。
 酒とかと同じで、自分がどれだけ呑めるかを弁える事が大事。 イッキ飲みして、急性美中毒症(重度にこじらせた厨二病)を発症してしまうと、単に自分が勝手に自滅してるだけにも関わらず、他者だのセカイだののせいにして、逆ギレしたり逆恨みしたりしながら、破滅的な事をして命を縮めたりする。

 一方。醜の追求。おぞましいもの、生理的な嫌悪感をもたらすもの。 怪奇趣味。猟奇趣味。性的倒錯。グロテスク。ナンセンス。抽象。不条理。超現実。 そういったものは、(一般的に分かりやすい)美とは違った磁力、人々の心を引き寄せ捉え釘付けにしてやまぬ魔力を持っていたりする。
 こちらも度を越すと良くない。 その名状しがたい魅力に引き寄せられ、その虜に(病みつきに)なってしまうと、ごく普通なものや、普通の意味での美では、なんとも物足りない、味気ないもの、つまらないもののように感じてしまう。 一種の不感症だ。 生活の中に張り合いを見出せなくなる。
 ・・・とりあえず。
 ジャズ好きの人間は、基本的に、自分達が受け入れたり美しいと思ったりしているものが、世間一般的には全くそうではなく、「特に美しくないもの」であったり「醜悪なもの」であったりする可能性が高い、という事について、多少は自覚・意識しといた方が良いかも知れない。
 
 人間は本能的に”闇”をおそれる。自分達人間の、その人間に含まれる自分の、その自分の中にある「自分の目の行き届かない部分」「自分でも説明出来ない(理解不能な)部分」「自分で制御する事が出来ない部分」をおそれる。
 また、それゆえに、(自分自身を見るのに適していない)自分の目では見る事の出来ぬ"闇"を見抜く他者を、自分以外の人間を、その視線をおそれる。 だから、通常は、見せてもよいようなキャラクターを意図的に造りあげ、その仮面をつけて、或いは既製品の一般論という衣をまとい、他者や社会と接する。
音楽でいえば、楽曲とか作法とか慣習とか、そういうちゃんと仕立てあげられたものでバリバリに身を固めていく。というのが普通の中で。
 ジャズという音楽は、半裸で出歩くようなもの。 なんの躊躇も羞恥心もなく、あられもない姿(闇)を剥き出しにする。それを見せようという。
 立派な変態である。

 醜いもの。グロテスクなもの。奇怪なもの。呪術(悪魔崇拝)的なもの。オカルト。
 こうしたものが周期的に流行る。
 いわゆる60年代のジャズなんか、まさにそれ。 世の「まっとうな音楽感覚」からすれば、気持ち悪い和音やリズムや音色やアンサンブルが、やたら持て囃されたり、礼賛されたりした。
 曲やアルバムのタイトルやジャケット絵からして、いかにもな感じの作品が大量に作られた。 アフリカの植民地の独立とか、中東や東南アジアの戦争とか、大混乱していた世界の世相や西側先進諸国のの欺瞞にゲンナリしていた人々の心理も反映していたかも知れない。暴力的でダークな作品が多い。
 人間の闇の部分(内奥、裏側、陰惨な、非合理的でカオスな部分)、を追求するような、えぐるような、そういうベクトルのもの。
 ・・・実際には、そういったものは、あくまで人間の持つ一つの側面に過ぎないのだが、過剰な美とか普通(平凡)とかに食傷気味な層に支持されたり、「これこそ真実(リアル)の姿だ!」とか錯覚されたり過剰に持ち上げられたり、する。
 


 
 失われた20年。
 長期不況。
 リーマンショック。
 さらに東日本震災を経て。
 この数年、日本では、やたらと前向き(ポジティブ)なもの、明るいもの、健全なもの、癒し系なもの、気軽なもの、美点、普通なもの、が溢れた。若干、過剰なまでに。 むしろ飽和状態。
 ぼちぼち「闇」の需要が、高まってく頃合いじゃないか、と。

 元々フランスやスペインの植民地だった上に、南北戦争で敗北した賊軍の地だったアメリカ南部という土地で、保障もなくいきなり解放され(自由競争社会に投げ出され)生存危機なくらいの貧困や差別に見舞われた底辺層を発祥とするジャズという音楽文化には、闇を含む、低俗な性質があるし、抜けない。
 実はちょっとキツかったりサッパリ分からなかったりするものでも、無理して「イイネ」とか言ってしまう、そんな物分かりの良い自分に陶酔したり、ついついヤセ我慢して伊達っぽさを演じてしまう、「おフランス的」な(芸術文化への)寛容さ。それに立脚したのがモダンジャズという音楽文化。
 アメリカの中の非アメリカ。 成立以来、(本国を追われ新天地を求めた)英国系を中心にそれをマジョリティとして構築され回されてきたアメリカにおいて、さらに虐げられ迫害差別されてきたマイナリティ、社会の矛盾や膿の中から湧いてきたジャズという音楽。
 戦争に次ぐ戦争の中、愛国精神とかアメリカ至上主義とか、そういう保守的なものがマジョリティとかハイソとかエスタブリッシュメントとか、持て囃され礼賛される中で。 もはやアメリカかどうかすら定かではない、怪しい、価値を認められていないどころか、非合法(イリーガル)でアンダーグラウンドな、低俗な、芸術どころか文化とすら認められぬような、いかがわしい卑しいもの、という認識だった、ジャズというものの価値を認めたのは、外国だった。
 
 アメリカ国外の外国人がジャズという音楽を知る事が出来たのは、レコードが発明され、ジャズが録音されたからだ。
 ジャズという音楽が、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドという白人バンドによって、史上初めて録音され発売されたのが、1917年。ちょうど百年前だ。
 まだJAZZですらない。JASSという、性的な意味合いを持ったスラング由来の呼称だった時代。
 さすがに、それでは良くないだろう、とバンド・デビュー後、Original Dixieland Jass Bandから、Original Dixieland Jazz Bandに改名。
 これをきっかけに、ジャズのレコードが世界的に普及していく。
 そして、迎えたのが1920年代の、いわゆる「ジャズ・エイジ(ジャズの年代)」だ。
 


 
 第一次世界大戦後、アメリカが世界有数の大国として台頭していく時期。
 第二次世界大戦後、アメリカが西側筆頭の世界最強国家として台頭していく時期。 
 強いアメリカとか、アメリカ・ファーストとかを目指していく時期に、むしろ、こういう非アメリカ的である一方でアメリカそのものであるような、社会の暗部、負の側面、醜い部分を暴く音楽として、アメリカに対する批判的・反対的なものとして、求められていった歴史がある。
 ジャズは、あまり、「明るい表通り」が似合わない。屈託ない、健全な、真っ直ぐなノリというのが、あまりマッチしない。
 世の中が右肩上がりでイケイケな時、裏通りとか日陰から皮肉な目線で表通りを眺めてるのがお似合いな音楽、というのが僕の持論だ。
スタンダード「On the Sunny Side of the Street」という歌が、そうであるように。
 そういうベクトルのものが求められる時期、つまり、ジャズの季節が来るのではないか、と思う。(希望的観測w)

     

 



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