所長の独り言... 
とあるジャズベーシストの独白・・・
グラフィックいろは歌
加減乗除があって。
数式の基本、整式があって。
定数や変数や同類項や因数があって。
乗法公式があって。
因数分解があって。
有理数、無理数があって。
一次方程式、一次不等式があって。
二次方程式があって。
解の公式があって。
二次関数があって。
グラフがあって。etc
ちゃんと、ここ迄の話が理解出来て使いこなす事が出来ていれば、放物線グラフを自在に移動させたり、さらにはグラフを(また正方形その他の図形を)みただけで数式に見えてきたり、数式をみただけでグラフや図形が思い浮かぶ、のだそうな。 (正直、よく分かってないw)

数学を筆頭に、理数系はからきしダメで、高校時代に嫌いでサボりすぎて単位を取得せず、スルーして生きてきた。 しかし、DTMとかやっていくうえで、波形その他の、理数系の基本的な知識くらいは無いとどうにもならないような気がして、指練などをしながら、NHK高校講座を視聴したりしてる。
テストも、拘束時間も無いし。
自分のペースや理解度で、気軽に学べるので、まぁ分かっているとは言い難いにせよ、小難しそうなネーミングに挫ける事もなく、大雑把な仕組みみたいなものが朧げながら見えてくる。
そして、グラフと数式のような関係を、和音や譜面に置き換えて考える。

ピアニストは(ギタリストも、かも知れないが)、和音を和音として捉えているし、覚えている。
勿論、我々単音楽器も勉強の過程でコードを押さえたり、ある程度は聞き取る事も可能なのだが。(でないと、セッション出来ないどころか、イントロ入れないし、エンディングで終われない)
メロディ弾きながら、同時に和音でバッキングしたり、瞬時にボイシングしたり、という事が、感覚的に理解出来ない。 魔法や超能力の如し、だ。 分かる、とは言い難い。 それで、リズムとか、トップノートの動きとか、識別出来る範囲や角度からヒアリングしたり、楽曲知識や経験則で補完したり。
「なんとかヒアリングは出来なくないが、流暢に喋ることが出来ない。知ってる単語でカタコトで喋る」という事になってしまう。作曲にしても、そうだ。歌(単音旋律)+伴奏、という軽音楽的な、モノディの様式から脱し得ない。
・・・いや、譜面やアレンジで頑張れば出来なくはないかも知れないが。
考えたり、後から分析する事は可能だが。
 メロディ、ハーモニー、リズム、を三位一体で、出来上がった状態で、即興的に作り出す事が出来ない。 それをやるためには、歌や単音楽器のイタリア音楽的な感覚ではなく、フランスで発達した和声やドイツで発達した鍵盤の感覚がいる。
 
 歌から、口からの音楽は、どうしても単声になるし、ブレス(息継ぎ)という間が生じる。 まぁ、それがある種の分かりやすさとか、フレーズのひとまとまりや区切り、さらに息づかい・臨場感を生み出して、軽音楽(ポピュラー音楽)においでは重要視されたりするのだが。 それが、ときどき枷、思考の制約、障壁ともなる。
 
 
 ちなみに。ベースは、4ビートのベースラインというものがある。これが「スイングのリズム」を作り出す。
 テューバで演奏された「ジャズのリズム」は、マーチ由来の2ビートであり、息継ぎの間も必要だったが。
 ウッドベースはブレスが必要ではないので、ラグのピアノ左手みたいな事が可能になった。
 4ビート(スイング)のベースラインは、半分はピアノの分散和音(アルペジオ)の血統だ。言わば母方。 が、もう半分、父方の血筋は、テューバの、マーチの、2ビート。つまり、ルート5度のバンプのみで延々と吹く、音程のついたバスドラム、だ。 旋律とは全く別個に存在出来る。こう言ったらなんだが、実はコード進行すら必要としない。 ド、ソ、ド、ソ、ド、ソ、ド、ソ、、、、 たまにドミナントのレ、ソ、を入れても良いけど。 無くても、メシ三杯はいける。 曲やコード進行に合わせても良いが、実はベースラインの方はコード進行を必要としていない。
 このベースの性質をさらに発達させたのがファンクだ。延々ワンコード、ワンパターンで、(弾いてる本人さえ飽きて退屈にならなきゃ)いくらでも、何分でも何十分でも、イケてしまう。
実際、70年代マイルスとか、そんな方向の音楽がいくらでもある。

 ベースラインは、コード進行を、つまり「トニックに始まり、ドミナントやサブドミナントを経て、トニックに向かう、旋律以外で音楽を進めるという古典音楽の基本的な構造」を、さらに言えば調性とか音階すら、必要としていない。 細胞の中にあるミトコンドリアみたいな、「ありふれた異質な存在」だ。
 コード進行の前身となった、バロック時代の通奏低音は、これはモロにピアノ、というかオルガンやチェンバロの左手だ。低音部(バスパート)的で、ルートモーションという概念は、あまり重視されていない。 それ自体が長調か短調がを表現する和音と違い、主調に従い重ね方を示す。
 さらに遡れば、定旋律(循環ミサ)という所まで行く。 これは言わばガイドトーンラインの先祖であり、ベースラインとも関連してくる。
 こうした様々な側面を、同時に処理出来る楽器が、鍵盤楽器である。 細かくないフレーズであれば、最大両手の指の数だけ、10パート迄、処理する事が可能。クラシック音楽の大半のオーケストラ音楽は、人数は多いが、ユニゾンだったりして、パートは案外多くなかったりする。ピアノで書く作曲家が、現代で言えばMIDIの音色を後で変えるようなノリで、様々な音色(楽器)に割りふっている。ピアノ譜(大譜表)を拡大するような形で、スコアを書く。しかし、作曲そものものは即興的に、頭の中で行われる場合が多い。勿論、流暢にピアノという言語・数式を使えた上での話だが。 

 数式の様々な処理。変換の仕方を身につければグラフや図形で可視化出来るし、逆にグラフィック情報を数式として読解する事も出来る。 それと同様にコードネームや大譜表(ピアノ譜)を見て直ちに(途中で単音で筆算する事なく)サウンドで捉えたり、サウンドから直ちに和音や大譜表で思考出来るようにしたい。 もっとグラフィック的に、音楽を捉えたい。 変換・互換・操作を、自由自在に、したい。
 そのためにも、まずは、1+1=2とか、ニニンガシとか、イロハとか。 
 最初から、順番に、やっていく必要がある。
ザッと通読していこう
都内に出かけたついでに図書館へ。
楽譜もCD(90〜ゼロ年代のコンテンポラリーもの)もある。
便利だな〜。(^^)

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昔、誰かに「若い頃、学生時代に1000冊を目標に、沢山本を読んでおきなさい。なんでも良い。それで得た知識や経験は、どんな道に進むにせよ、君達を後押しする強い味方・財産になる筈だ」と言われた。
それは主に漫画や小説や雑誌を中心に達成されてしまう事になったがw
岩波文庫とかも多少は読んだりしていた。 もし、岩波文庫を全部読破したら、多少はバカが治るか、賢く生きれるようになるか、と思ってトライしたものの、ジャズやベースのせいで挫折。 バカなまま、今に至る。
それでも辞書を引きながら100冊くらいは読んでみると、色々みえる。
全音楽譜出版社は、岩波文庫みたいなものだと思って。巻末の教本一覧を、岩波文庫の刊行目録みたいなもんだと思って。 辞書ではなく鍵盤をひきながら、読み進めてみよう。どうせ、ちゃんと(正しく)やるとか、理解するとか、無理だし、それが目的じゃない。 じゃんじゃん、ザッと通読していこう。

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ポピュラー畑のクリエイターや彼らの作る音楽は、四和音なジャズ・ポピュラーよりも三和音なクラシックに根ざしている、ような感じを受ける。 四和音のジャズ・ポピュラーにはないが、三和音のクラシックには含まれている要素を最大限に活用している。ように見受けられる。
ギターや歌や管楽器から生まれてくる音楽ではなく、鍵盤から生まれてくる音楽だ。 そちらの感覚、一般教養・基礎教養、考え方の基本、コモンセンス、みたいなものを手に入れたい。


とりあえず小学生、いや、幼稚園児とかが習ってやっている事を、良い歳こいた大人が、しかも音楽をやって生きてる者が、やってやれない訳がない。
取り組むべき必然がある以上、行き止まりに至るまでは、やるしかない。
また、思ったよりも(勝手にイメージしてたより)ずっと道は整備舗装されてる。

まずは、一覧にあるものを、片っ端から通読していって。 その後で、先の事は考えよう。

「音楽の父」の威厳
出先で待機がてらにノマド作業。
ベースを弾いた時の指板から見えてくる世界。
キーボードを弾いた時の鍵盤から見えてくる世界。
譜面を読み書きした時の五線譜から見えてくる世界。
コードやその進行から見えてくる世界。
どれも全然違う、ようで同じようでもある。
多元的で広大無辺な音楽世界。

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何年か前、楽器や音楽のルーツや歴史を辿ってみようと、古代ギリシアのピタゴラス音律や旋法から、グレゴリオ聖歌、ゴシック時代の音楽、トレチェント音楽、吟遊詩人、ケルト音楽、ブリテンの和声、ルネサンス音楽、賛美歌(コラール)、北ドイツのオルガン学派、くらい迄、俯瞰した事がある。
いわゆる西洋音楽とかクラシック音楽とか呼ばれる音楽や機能和声システムが確立する前まで、「中世ヨーロッパ音楽」と大雑把に呼ばれているもの。 まぁ、大体はネット情報、wikiやyou tube 等を利用してのものだったが、たまに図書館に行って本やCDを借りてきて調べたりもした。
おかげで、色々と整理出来たり、見えてきたものがある。
ただ、しかし、言わば「座学」に過ぎず、実際に検証する事をしていなかった。
理由は言うまでもない。 「ピアノが弾けなかったから」だ。
だから、どうしても理屈としては分かるが、実感がわかない。

バロック時代末に登場したバッハは、ネーデルランドや北ドイツなどで新教(プロテスタント)の布教やオルガン付き教会新設で発達したオルガン文化と、南ドイツやイタリアなどの神聖ローマ帝国領において、ビザンツ文化やイスラム系文化などを取り込みつつ発達したルネサンス音楽をフュージョンさせた。 ちなみに、「バロック音楽」というのはドイツ中心の音楽史観において、ルネサンス音楽と古典音楽(クラシック音楽)の間とされてるもので、フランスでは、フランス音楽史にバロック音楽は存在しない、と主張し、この時期の音楽を「古典フランス音楽」と呼ぶ者もいるとか。
要は、ゴチャゴチャしてた、あちこちに色んなものが混在してた、という訳だが。 そのゴチャゴチャしていた時代の様々な音楽を集大成し、分かりやすい「クラシック音楽」と呼ばれるメジャーなメインストリーム音楽がドイツに成立する土壌を作った人物が、このバッハ。
生前は地味というか、知る人ぞ知る的な実にマニアックな音楽家。 売れっ子トップ・アーティストだったヘンデルと違って、音楽家以外の世間の知名度はそんなでも無かったそうな。
 しかし、彼より先にメジャーになった子供達を中心に、バッハという音楽家や楽曲はプロモーションされ、リスペクトされていき、やがて、スタンダードとなる。
 20世紀に調性フリーな現代音楽や、アメリカのジャズ・ポピュラー音楽とその手法が世界的に広まる迄、「音楽」といえば西洋音楽であり、古典(クラシック)音楽であり、機能和声・調性音楽だった。 という意味で、バッハは「音楽の父」と呼ばれている。

 ジャズといっても、エリントンやモンクが本格的にジャズ作曲を行う前は、古典的な和声に、ブルースの影響を受けた旋律を乗せたり、ロシア音楽の影響を受けた味つけをしたりする、リズムをバウンスさせてみる、くらいのものだった。いわゆるスタンダード、アメリカの大衆音楽の多くがそれだ。
 我々、現代のミュージシャンが音楽という時、どうしても四和音(+テンション)とか、ツーファイブとか、ダイアトニック&ノンダイアトニックとか、コーダル&モーダルとか、そういう所から、理屈や成立過程は抜きにして公式を暗記させられるように叩きこまされる。
 それで、どうしても、ジャズ・ポピュラーの方が、クラシックのそれより進歩的、上位互換だと、思い込んでしまいがち。
 実際、20世紀の終盤、90年代までは、そういう考え方が多かったように思う。
 しかし、21世紀に入ると、古典的な三和音(トライアド)のサウンドが流行る。ジャズ畑はポピュラー音楽という枠から外れてガラパゴス化し、クラシック音楽の一種という扱いとなる。
 ジャズだけでなく、ロックなんかも、そう。  アメリカのヒットチャートでは、打ち込み・ループ系など、延々と反復するトラックの上に、歌というか詩が乗るのが席巻する。
 英語の分からない9割の日本人リスナーには、MVの映像付きでも無けりゃ、コード進行もメロディもない、念仏のようなものにしか聞こえない。当然「CD」は売れない。 大多数の日本人リスナーにとって、現在の洋楽シーンは、英語のラップ音楽など、ほとんど興味も関心も湧かない。 ピコ太郎くらいならアリw
 
 トライアドとペンタトニック。 Jポップス、の前のニューミュージック時代に、ポピュラーのセンスやノウハウが移植される以前の、「昭和の歌謡曲時代」のそれに戻ってきている。 懐メロで昔の80年代や90年代の音楽番組が繰り返し流され、そちらに寄せ気味な新曲が作られる。
 一周まわって、若い世代には新鮮に聞こえるらしい。また、昔さんざん聞かされて食傷気味でウンザリしてた昔は若者だったオッさん世代にも、懐かしく聴ける程度にはほとぼりは冷めたらしい。 ブルースやジャズやロックは、先述したようにクラシックの一ジャンルと見做されている。
 ポピュラー音楽、大衆音楽というのは、新鮮さ(真新しさ)と親しみ、という実にアンビバレンスな代物。少し新し過ぎると理解されず、少し親しみ易すぎると古臭いとか幼稚とか言われてしまう。 歌は世に連れ、世は歌に連れ。 アウトすれすれのコースをついていく、そういう難しい世界だ。

 クラシック音楽とは言うが、現代知られている名曲の数々は、忘却とか時代の淘汰の荒波をくぐり抜けた、永遠のスタンダード、歴史的なポピュラーミュージックである。 そういう大ヒットソングを出した音楽家が、大作曲家と呼ばれる訳だが。 その創作のうち、ヒット打率はどれくらいか。 たまたまモーツァルト全集とかベートーベン全集とかiTunesにコンプリートされているけども、誰もが知ってる曲もあれば、全然知らない曲も沢山ある。 モーツァルトにせよ、ベートーベンにせよ、プロとしてお客さんにウケそうな作品を作りまくる。 ヘンデルとてそうだろう。

 しかるに。バッハは、ひたすら、神に捧げる音楽を、大衆受けなど気にせず、ひたすら、黙々と供物(曲)を作る。 売れ筋とか、迎合とか、そういう事をあまり気にしてない、人間を視野に入れてないようなところがある。 いや、教会に参拝に来る人のために書いたりはしたかも知れない。
 バッハの曲は、とにかく、真面目だ。神聖だ。高尚だ。 お堅い。 「ふざけてはいけない」感に溢れてる。迂闊に手を出せない。
その意味で、嘉門達夫氏の「鼻から豆乳」という替え歌にやたら感銘を受け、ゲラゲラ笑いこけて、連発していた、、、そんな少年時代w
 これほど、お堅いイメージのバッハだが、そのお堅さはどこから来るものなのか。 そして、時代を超える新鮮さは、どこから来るものなのか。
 漠然と、座学的になら、理屈を言えなくもないが。
 ちょっと自らの手を使って、フィールドワークをしてみたい、俯瞰や客観ではなく主観で確かめたい、と思う今日この頃。

 
「格好良い」って何だ?
カッコイイ、とか。センスが良い、とか。
時代によって変わることが、よくある。
いま、お笑い芸人がやってるバブル時代ネタとか、例えば晩年のプレスリーのような格好とか、ああいう今ではギャグ扱いになってるものが、昔は最先端だったり、していた時代は確かにあったのだ。


だんだん年も食ってく上に、年々世捨て人っぷりに拍車がかかり、ただ音楽をやってる(ベースを弾いたり、譜面書いたり、音源作ってる)だけの生活スタイルになってきている。
一応TVは見てるが、主にニュースとか教養番組、経済番組、文化番組、旅番組とか。
NHK、テレ東、TVK。他の局の民放バラエティ番組とか見ない。 もはや、知らないタレントばかりで、全然ついていけない。何が面白いのかもサッパリ分からない。
しかし、良い物を作るためには(クライアントが求めそうなものを提供していくためには)、食わず嫌いしてる訳にもいかない。
カッコイイ音楽。センスの良い音楽。
僕個人の趣味嗜好で行ってしまうと、まずズレてしまう事は分かっている。
そして頑固だから、変わる気(変わろうという気)は、まるで無い。
別に、僕が、別にカッコイイとも、センスが良いとも思わなくても良いから、売り物になるものを、と考える。


コピーライターの人を紹介する番組があって、参考になる、というか、考えさせられる。コピーライターというと、漠然と、キャッチコピーを作る人、というイメージだったのだが。今日び、日本語とPCが使える社員がいれば、どこ(.どの会社)でも、自前で何かしら作れる。
しかし、色々とアイデアを練り、いくつかの案に搾って、候補を選ぶ段階に持っていくまでに。ありとあらゆる計算、様々なシチェーションや効果を想定したりしていく、そんな作業に多大な時間や労力を費やす、そこに人員を割くとか、あまりに非効率的。
餅は餅屋、専門に外注した方が良い。

時間をかけて、何十、何百というアイデアを出し、それから引き算していに、複数の案に減らして、クライアントにプレゼン。 気に入ったものを選んで頂く。 内心コレが一番良い、と思っていたものが(専門家の自分が良いと思っていたものが)外れ、他のものに決まったりする。
何よりクライアントの満足が第一、らしい。専門家である所の自分の価値判断・センスなどに執着せず、納得いく商品を提供する。
まさにプロフェッショナルである。仕事人である。 そこら辺の割り切り感、クールさは、確かにカッコイイなぁ、と思う。時代に、世の中に左右されない、そういう類のカッコよさだ。
・・・どうも、昔から、こういう人知れず黙々コツコツと自分の道に徹する、目的のためなら手段を選ばずどんな選択でも出来る、そういう裏方気味な人々に萌える癖があるようだ。
ゆとりに満ち溢れる社会
 最近、寝ぼけ眼で日課で機械的に指トレをやる傍ら、ネットのライブ中継動画や音楽関係の動画を視聴したりする他、NHK高校講座とかティーバーアプリとかネット配信されてる経済TV番組を見たりして世の中のお勉強をしたりしている。
 もともとはコンテンツのBGMとか、そういうもののリサーチ的なものがキッカケで始めた事だが、色々と目からウロコだったりもする。  

 先日、ある経済番組で、ゆとり世代と呼ばれる世代がいよいよ新入社員となり、会社や社会はそのために変化し始めている、という内容をやっていた。
 この、団塊世代の引退とか景気やや回復で人手不足が叫ばれる昨今。 ようやく獲得した人材に、「キツいんで、やめます」「なんか合わないんで、やめます」とか言われて抜けられちゃ困る。 彼らの少し前の就職難世代が、クビにされないために、我慢してブラック労働に耐えていたのと対照的。
 バカヤローと怒鳴ったり。 理不尽な業務を押しつけたり。 そういう理不尽な職場や上司を許さない。
 そんな状況に、無理して耐えたりしない。 とっととやめて、他を探す。
 会社側は、上司は、どうにか辞められない対策をとっていかなければならない。彼らにストレスなく、快適に、仕事して頂けるような体制に変えていかねばならない。
 (企業側が就活大学生に土下座まがいの接待をしたりしていた)バブル世代以来の、30年ぶりくらいの「売り手市場」の到来である。強気かつマイペース、堂々と、はばかって生きていける。
 多分、アラフィフくらいのバブル世代の人達は、意外と切り替えが早い。昔の自分達がどうだったかを思い出せば良いのだから。 多分、現場で、いちばん困惑してるのが、アラフォーとかアラサーの、いわゆる就職氷河期世代の中堅、中間管理職だろう。
 自分達がやってきた(やらされてきた、耐えてきた)アレコレが、全く使えない。 というか、新卒社員達やそれに対応してアッサリ手の平を返す、これまで真逆に近い事を求めてくる、上司達の考え方が理解できない。
 「即戦力? 就業時間外の個人の努力? 自分磨き? ・・・なんか、ちょっと、良く分かんないんですけど・・・ プライベートとか、友人や家族とのコミュニケーションとか、そういう方が大事というか・・・」
 「うん。そうだよね。当然だよ。 そこら辺は我々もちゃんとしていくから安心して。・・・おい、出来るよな」
 「・・・は、はあ」
 的な。 
 キレずに、合わせて、対応していかねばならない。

少し前、ゆとり世代というのが出来てきた時。
「こんなヤツらが社会に出てきたら、どーすんだよ。日本終わりだろw」とか揶揄されたりしたが。
状況は一変した。 そう言ってた世代が、アタフタしてる。




 就職氷河期、失われた20年に、先の見えない厳しい時代に、それでもその状況に(理不尽な労働を強いる社会や会社や上司に)どうにか対応・順応してサバイバルしてきた人達は実に納得いかない話、アンフェアに感じる状況かも知れない。
 しかし古い世代はどんどん抜けていき、ゆとり世代、さとり世代、というのが台頭してくる。世の中、どんどん変わっていく。 彼ら、若い世代、次世代に合わせて。
 これは、何も日本だけで起きている動きじゃない。
 世界中、どんどん内向きになってきている。グローバル時代は、ブレグジットや、トランプ大統領の登場によって終焉してしまった。海外工場を国内に帰還させる動きが高まっている。 反グローバリズム、といっても良いような状況になってきている。

 自国(民)第一主義。 国は、貴重な労働力にして消費者である国民を、若者を、落伍させないようにケアしていくだろうし。 彼らが落伍しないで済む方向に社会や会社に、働きかけていくだろう。 つまり、バブル崩壊後のリストラの嵐が吹きまくった時代とは、何もかもが変わって来るのだ。
 それと、女性や育児への対応。働き手の家庭生活の充実。こちらも、少しずつ、進んでいっている。
 少し前まで、家族や家庭を顧みず、仕事第一にモーレツに働くのが、男の、企業戦士の勲章だった。
 これからは、違う。ゆとりのある働き方・暮らし方、これが第一となっていく。
 
 世界情勢が、どんどんキナ臭い方向に、緊迫した方向に、向かっている。
 特に東アジア情勢は、一触即発の雰囲気になってきている。
 だからこそ。人々は、ゆとりある生き方・人間らしい豊かな暮らし方・そのための働き方を、強く求めはじめている。
 
 日本的には「バブル崩壊後の失われた20年」だったが、国際社会的には冷戦終結後のアメリカ一強の時代、緊張緩和の時代だった。 テロ問題はあったにせよ、世界を主導する大国同士の深刻な対立とか大きな戦争の可能性はかなり低かった。
 ヨーロッパはEUとして統合し、中国が資本主義化し、東南アジアは内戦状態を脱し、グローバル化や海外進出が叫ばれた。
 それが、この数年の間に、状況がかなり変化した。
 クリミア問題でロシアが先進国首脳会議から外され、アメリカを始めとするEU諸国と対立。制裁を受けたりした。
 また、統合路線に反発するイギリスはEUから離脱。
 中国は南シナ海はじめ、近隣諸国と領海を巡って対立。影響力を増しつつある中国はアメリカに警戒され対立。
 アメリカと中国の間でフラフラしていた韓国は、結局どちらからもパッシング(無視)されるようになり。
 その状況に乗じて北朝鮮はミサイル撃ったり核実験してアメリカを挑発。グアム等の領土・領海にミサイルを撃ち込まれる可能性が高くなってきたアメリカは、徐々に「やられる前に叩く」という雰囲気になりはじめ。
 ここに来て、韓国も対北の準備を開始。
 ロシアや中国は、アメリカに自制を呼びかけている。 もしアメリカが攻撃したら、ただじゃおかない、という姿勢をチラつかせている。
 このロシアや中国というアメリカへの切り札を背景に、北朝鮮としては、国際社会においてアメリカと対等な、どちらかと言えば上からの目線のとれる立場に立って、「誠意を見せたのでアメリカを許してやろう。話を聞いてやっても良い」という言い方が出来るまで、この博打に近い危険なチキンレースを続ける可能性がある。 
 もっとも、あのアメリカが、トランプが、そんな物わかりの良い、自分達を脅迫しようとしてる相手に頭を下げるような、屈辱的な事を、するとは思えない。 
 中国・ロシア・インドという核保有国や国連安保常任理事国を含むBRICsの首脳会議は、アメリカやそれを中心とするG7諸国への対抗するべく勢力拡大を強めている。 一応、北の姿勢に対しては非難しているものの、アメリカ陣営の対北政策も、ついでに言えば保護主義的な政策も、批判している。
 この状況に苛立ったアメリカが北を先制攻撃をするが早いか、或いは、北が中ロが静観のかまえを見せている(あわよくば、対米という事でコッソリ助力してくれるかも知れない)という計算の元に、「南を不正に干渉するアメリカから解放して半島を統一するための戦争」を再開するが早いか、という瀬戸際になって来ている。

戦争とかされたら堪らない日本としては、可能な限り我関せずで通したいが、まぁ、日米同盟とかアメリカの基地がある手前、そういう訳にもいかない。でも、あまり中国やロシアとも揉めたくない。
 とりあえず、沖縄のアメリカ軍基地や、北海道に沢山ある自衛隊駐屯地が、フル稼働するような事態は、避けたい。 少子高齢化社会、ゆとり世代が台頭しつつある、この状況で、突発的な事態など、起きては困る。地政学リスクが高まってしまうと、訪日外国人数や観光産業にも影響が出る。

 苛々するような、まな板の上に乗せられたような、ストレスフルな状況がしばらく続くが。
 何はともあれ、キレたら負け、だ。
 八方塞りなのだし。 それこそ八方美人で、口八丁手八丁で、どうにか乗りきるしかない。
 日本的には「まーまーまー。落ちついて、落ちついて。 わかる。わかるよ。うん。とりあえず、酒でも飲んで商売(シゴト)の話とか、しない? 」と得意の接待をするしかない。
 こういう時、 プライドの高い、競争力を追求する、バリバリ働くモーレツ社員のようなノリよりも。
 フレンドリーな、警戒されにくい、ゆるい雰囲気をもったゆとり社員のノリの方が、重宝されるようになる。




 多分、ゆとりが、これからの日本を救う。
 ・・・まぁ、救うかどうかはともかく、日本を支えていく事は間違いない。
 大事な、次代の担い手だ。

 そのうち、「昔、モーレツ社員とかバリキャリとかが推奨されたりウケたりした時代があったらしいよ。残業とか当たり前だったんだって」「わ〜、大変だね〜。うちらだったら耐えられない」「ホントだね〜」なんて時代が来るかも知れない。
 彼ら、シビアな時代に生きる、ゆとり世代だからこそ。 平和な時代の、競争社会の感覚などピンと来なくなってくるかも知れない。
 

 弱肉強食だの、熾烈な生存競争だの。勝ち組負け組だの。 
 そんなものは、所詮、軍事的に平和な時代・ビジネスに全力投球出来る時代に、戦乱の時代になぞらえた真似っこ表現に過ぎない。
リアルな生存競争の世界、一触即発の軍事的な緊張にまみれた世界が、始まる。 いや、再開される。
 国内は、言うなれば控室・基地・j休憩室・自宅、みたいなものだ。 必要ない時、休める所・休める時に、息抜きを抜かねばならない。
 一生懸命(一所懸命)とか、ガムシャラとか、必死とか、熱血とか。だんだん死語、時代錯誤になっていくだろう。 またもや。

  肩の力を抜いて、リラックスして、つっぱらずに気軽に生きてこうぜ。自分の人生や生活が大事なんだ。という世の中の雰囲気になっていく。 大事なのは、「ゆとりある、ユルい、無理をしない、やる気だ。 それが、 これからの、「ゆとりに満ち溢れる社会」」でのポイントとなるだろう。


     

 



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